Peoneyboy

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リバート

 仕事から帰ってきて自宅の玄関扉を開けたとき、アルハイゼンはドアの間に挟まっていた紙切れが地面に落ちるのを見た。手紙だ。落ちた手紙を拾い上げ、差出人の住所と名前を確認する。その手紙はフォンテーヌからのもので、署名にはカーヴェとある。アルハイゼンの知り合いの中でカーヴェという名の人物はひとりしかいなかったから、その名を見て「ああ、彼からか」とアルハイゼンは思った。
 家の中に入り、玄関扉から一番近い部屋であるリビングのテーブルに荷物を置くと、アルハイゼンは手紙の封を開けて読み出した。書かれていたのは、この前アルハイゼンからカーヴェへ送った手紙に対する返事だ。報酬は提示してくれたもので契約しよう。いつ、フォンテーヌへ来られそうなんだ――要約するとそのようなことが書かれている。
 アルハイゼンとカーヴェはここ最近、手紙のやり取りをしている。それは、アルハイゼンが自身の賢者退任が決まってすぐ、カーヴェへ手紙を送ったことがきっかけで始まったものだった。数年前にフォンテーヌで開催された、国際博覧会で会ったときにした話は今も有効かということを、賢者退任の話と合わせて書いて送ったのだ。それに対するカーヴェからの返事は、それって僕が君を事務員として雇うという件のことだろうか。だったら、今も有効だ。むしろ、僕はそのために今も事務員を雇わずにいる、というものだった。
 その返事を読んだとき、アルハイゼンは喜びを感じないわけにはいかなかった。彼にしては珍しく(家にひとりでいたというのもあったが)、顔が思わずにやけてしまうのを抑えることができないくらいだった。これでようやくわずらわしい仕事から解放され、理解のある雇い主――つまり、カーヴェに雇われ――悠々自適な暮らしができるのだ。
 その後、アルハイゼンは手紙を通じて、雇われる前に話し合っておく事柄を話し合った。月ごとに支払われるモラに関することもそのうちのひとつだ。アルハイゼンは、なにか文句を言われるだろうとは思いつつ、相場より高い給料を要求したのだが、彼の予想とは異なってカーヴェはなにも言わずその条件を呑んだ。それが、先ほど受け取った手紙の内容だった。
 リビングのすみにある引き出しから、アルハイゼンは便箋と封筒、あとはペンを取り出す。今回のカーヴェからの手紙では、実際にアルハイゼンがフォンテーヌへいつ来るのかを尋ねられていたので返事を書かねばならない。アルハイゼンは頭の中でざっと退任の日から準備にかかる時間までを計算し、さらにスメールとフォンテーヌを行き来する船便の時刻表を見て、ちょうど良い時間に出航する船があることを確認してから日付を書いた。そして、少し悩んだ後、このような内容も付け足した。
 退任の日、スメールへ来ないか。退任祝いがあるのだ。

 アルハイゼンがナヒーダからスラサタンナ聖処へ呼び出されたのは、彼が知論派の賢者へ就任してすぐのことだった。ナヒーダがアルハイゼンをスラサタンナ聖処へ呼ぶのはこれが初めてではない。これまでにもナヒーダを救出する際に関わった者たち――大マハマトラのセノ、傭兵のディシア、ズバイルシアターのスターであるニィロウたちとともに呼び出され、意見を求められることが何度かあった。しかし、今回はアルハイゼンがスラサタンナ聖処へついたときに他の者たちの姿は見あたらず、彼しかいなかった。この状況は初めてのことだ。
「アルハイゼン、よく来たわね」とナヒーダはスラサタンナ聖処へ入ってきたアルハイゼンの存在に気がつくと、そう言った。
 辺りをざっと見た後、アルハイゼンは「今日は他に誰が来る予定なのですか?」と尋ねた。
「今日はあなただけしか呼び出していないわ」言いながらナヒーダはアルハイゼンに近づいた。「まずは、知論派の賢者への就任おめでとう。あなたの働きを期待しているわ。もっとも、そのようなことを言わずとも、あなたは良い働きをしてくれるでしょうけど」
 アルハイゼンはうなずいた。「ありがとうございます。クラクサナリデビ様」
「今日はあなたに見せたいものがあって呼んだの。わたくしについてきてちょうだい」
 ナヒーダの考えが読めず、アルハイゼンは目をしばたたかせた。何度目かのまばたきの後、いつの間にか辺りが聖処ではないどこかの風景になっていることに気づく。まるで、雨林地域のどこかの森のようだった。これは神の力なのだろうか。
 ナヒーダは迷いなく前に向かって歩いていき、ひとつの小さな苗木の前で立ち止まった。彼女が苗木に触れると、彼女の姿が一瞬にして消える。なんとも摩訶不思議な光景だったが、アルハイゼンは驚かなかった。ここはそういう場所で、ナヒーダ――つまり神とはそういうものだ。常識にとらわれず見たままを、彼は受け入れようとしていたのだ。
 アルハイゼンは苗木に近づくと、ナヒーダがやったのと同じように苗木に触れた。彼女はアルハイゼンに「ついてきてちょうだい」と言ったのだ。帰り道もわからないし、とりあえずついていく他ない。
 苗木に触れた状態でまばたきをひとつすると、アルハイゼンはまたもや違う空間にいた。そこは、今までに見たことがない場所だった。なんとも言葉では形容しにくい。無数の道があり、多くの情報があり、それにも関わらずそこは無でもあった。
 少し先の方にいたナヒーダがアルハイゼンの方を振り返る。「ここは世界樹と呼ばれるの内部よ」
「世界樹の内部?」
 言いながら、アルハイゼンは辺りを見渡した。一般的に植物の樹の内部と聞いて想像する光景とは異なる。それは当たり前で、世界樹は『樹』と呼ばれているが、生物学的な意味合いでの『樹』ではない。元素エネルギーと記憶の通り道である地脈を通じてこの世界の記憶を吸収し、あらゆる情報を保持する、いわば保管庫のようなものである。そのことをアルハイゼンは知識として知っていた。しかし、内部に入れるということは知らなかったし、このような場所であるということも初耳だった。
「あなたが驚くのも無理はないわね。ここには情報やデータで構成された奔流しか存在しないのよ。世界樹がどんなものかということから想像してみれば、それほど驚くことではない。どう、理解できるかしら?」
「なんとなくは」
「さすがね。理解が早くて助かるわ」ナヒーダは上を見上げて、世界樹の内部に存在する道を見た。「そして、世界樹の性質を考えると、あの道は記憶の流れを視覚的に表したものだと思えてこないかしら。そう仮定すると今度は、あれらの道を繋ぎ変えたりしたらこれまでに起こったできごとも変わるのだろうかという考えが出てくる」
 アルハイゼンもナヒーダと同じように空間にある道を見上げた。なるほど、彼女の言うことはたしかにあり得そうだ。だとすると、今日アルハイゼンはスラサタンナ聖処でナヒーダと会ったが、その事実を取り除くことも可能なのだろうか。アルハイゼンが家を出たというを世界樹でナヒーダと会話をするというに繋げる。そうすると、アルハイゼンは家を出てナヒーダとの待ち合わせ場所である世界樹へ直接向かった、という行動をしたことになるのだろうか。
「たしかに、できそうな気もしますが、かなり難しいことになりそうです。道を繋ぎ変えれば、意図しないところでつじつまの合わないところが出てきてしまわないでしょうか。今日、俺はクラクサナリデビ様から呼び出されてスラサタンナ聖処に行きました。俺がスラサタンナ聖処へ行ったという事実をなかったことにするならば、『クラクサナリデビ様がスラサタンナ聖処へ俺を呼び出した』ということもなんとかせなばなりません」
「そうね。アルハイゼンの言う通りよ」ナヒーダは再びアルハイゼンの方を向いた。「でも、世界樹にはその矛盾をどうにかしてしまう力があるの」
「まるで、過去に情報を書き換えられたことがあったような言い方ですね」
 ナヒーダはうなずいた。なるほど、そういうことかとアルハイゼンは腑に落ちた。
 過去の情報を書き換えられたことは今までにあったが、世界樹のその能力により、誰も違和感を感じることがなかった。彼女はそう言いたいのだろう。もちろん、違和感を感じていないのは、アルハイゼンも例外ではない。もしかしたら、その書き換えられた情報というのは、アルハイゼンにも関係することかもしれない。そう考えていると、現在アルハイゼン自身が認識しているこれまでにあったできごとというのは、全てが最初から存在していたわけではないのだ、という気がしてくる。
「なぜ、クラクサナリデビ様は世界樹について俺に話したのでしょうか。よく考えずとも、この件はあまり多くの人に知られるべきことではありません。人々にいらぬ不安を抱かせてしまう材料にしか、なり得ないからです」
「あなたが賢者に就任したからよ、アルハイゼン。私は、賢者たちにはこの世界樹の秘密について話すことにしているの。秘密を共有することで私たちの間には絆とでもいうような――いえ、同胞の方が正しいかしら――とにかく、深い繋がりのようなものができるのよ。そうすることで、私たちはお互いに信頼を得ることができる。私たちの間で一番大事なのは、信頼関係を築くことでしょう。そのために、私は世界樹の秘密を利用している」
「なるほど。そういった事情があるならば、俺が賢者から退任するとき、今日この場で聞いたことは全て忘れさせられるのでしょうか。世界樹に記憶されている今日あったできごとを消し去ることで、俺は知らぬ間に世界樹の秘密について聞かなかったことにできます」
 アルハイゼンは思いつくままに、その言葉を口にした。とらえ方によっては、不敬だと言われてしまうようなもの言いだったが、ナヒーダは人々の意見にしっかり耳を傾けてくれるような神だ。だから、彼女には遠慮せず思ったことをそのまま話すべきだろうと彼は考えていた。
「そんなことしないわ。だって、私が困るもの」
 言っていることがわからないとでもいうように、アルハイゼンはナヒーダのことを見た。ナヒーダはアルハイゼンが疑問に思っていることを感じ取ったようで、さらに続けて言った。「世界樹で歴史を書き換えた場合、私にだって書き換える前にどうであったかはわからなくなる。世界樹による改ざんの影響を受けないよう、うまく情報を残さない限り、テイワットに生きる人々の記憶から書物の一言一句に至るまで、全てがなかったことになるのよ。それは、神も例外じゃない」
 アルハイゼンはうなずいた。「つまり、過去に情報を書き換えられたことがあるというのをクラクサナリデビ様が知っているのは、世界樹による改ざんの影響を受けないように情報を残したからなのですね」
「そうよ」ナヒーダは答えた。「世界樹によって歴史を変えられたことがあると言ったけれども、私が認識しているのはたったひとつの事例だけだわ。それは、ある人物が自分の存在を消そうというものだった。私は変わる前の歴史を、『童話』という形にして残しておいたの。世界樹から影響を受けないよう巧妙に、一見、その人物のことを書いているのだと思えないくらいの内容にしてね」
 アルハイゼンはナヒーダを見た。その、自身の存在を消そうとした人物の現在が気になったが、ナヒーダにはそれ以上話す気はないようだった。アルハイゼンはこのことについて深く尋ねるのはあきらめ、もうひとつの気になっていた内容を確認するかのように言った。
「クラクサナリデビ様でさえ、世界樹による改ざんに気づくのが難しいということは、その一件以外にも過去に歴史が変わったことがあるということでしょうか」
「その可能性は十分にある」ナヒーダは、はっきりと言った。「世界樹から消された情報は、一度消されたら世界樹から読み取ることはできないの。もしかしたら、私の知らないところでなにか重要な情報が書き換えられている可能性だってある。でも、そんなことを気にしすぎるのは良くない。私は必要以上に、そのことについては考えないことにしている」

 店員が食事を運んできてからも、同じテーブルに座るセノ、ティナリ、アルハイゼンの間には全く会話がなかった。周りに座る他の客たちの会話がやけにはっきりと聞こえるくらい静かだ。子供が教令院に合格した話、商人たちによる良い値段で仕入れることのできた商品の話、あとは、学者たちが妙論派の論文について話しているのが入り交じって聞こえてくる。
「思ったより元気そうで良かったよ」とティナリがようやく口を開いた。彼が注文した料理は既に半分以上が食べられている状態だった。「正直、僕たちは心配していたんだ。これからの雇い主を失ったのだし、それに彼は君の友人だったからね」
 アルハイゼンは右手に持っていたフォークを皿の上に置いた。「さすがにひと月も経てば現実を受け入れ始める」
 ここ最近の、セノやティナリの腫れ物を触るかのような態度に、アルハイゼンはいい加減うんざりした気持ちになっていた。死というものは誰にも覆すことができない。今回の件についても同じで、カーヴェの死についてどうしようもできない以上、後ろばかり向いているわけにもいかないのだ。
 客観的に見れば、フォンテーヌからスメール行きの船が沈んだという話を聞いた後、その沈没した船の乗船者名簿にカーヴェの名を発見したときの取り乱したさまはまるでアルハイゼンらしくなかった。その話を聞いたとき、アルハイゼンは仕事中だったのだが、見かねた補佐官が今日は帰宅した方がいいと勧めてきたほどだ。
 そのときの様子をセノとティナリは知っているから、二人はそのような態度を取っているのだろう。だが、アルハイゼンは既に現実を受け入れていた。沈没していた船に乗っていた人は誰一人として助からなかった。つまり、カーヴェは死んだのだ。

 最後に、カーヴェと直接会ったのはマジックを見にいった日だったな、とアルハイゼンはふと思った。そのようなことが思い浮かんだのは、カーヴェの死を受け入れ始めてから数日経ち、自宅の書斎で本のページをめくりながらぼんやりとしていたときだった。
 あれは国際博覧会に行ったときのことだ。カーヴェの提案で有名なプロマジシャンの公演のチケットを取り、二人で見にいったのだ。そのマジシャンはフォンテーヌにおいて人気で、チケットを取るのが難しいらしい。だが、その日の公演のチケットはカーヴェの仕事の伝手で取ることができたのだった。
 一言で表すと、その公演は大変素晴らしいものであった。スメールでは見ることのできないたぐいのマジックであったし、それを抜きにしても人気があるのにうなずける内容だった。舞台上のマジシャンが、大きな舞台装置を使用した大がかりなものから、小さな道具を用いて手元で連続して繰り出すマジックまで幅広く披露する。緩急のある構成で、見ていて飽きない。それは周りの他の観客たちも同じようで、皆夢中になってマジックに見入っていた。
 マジックの公演を見にいった日以来、カーヴェとはアルハイゼンが事務員としてカーヴェに雇われる件について何度か手紙のやり取りをしていたが、直接会ってはいなかった。その手紙のやり取りの中で、アルハイゼンはあるとき、自身の賢者退任の日にスメールへ来ないかとカーヴェを誘った。それが全ての始まりで終わりだった。カーヴェはその提案を承諾し、フォンテーヌからスメールへ来ようとしたのだが、その際に乗っていた船が沈没したのだ。不幸な事故だった。そして、巻き込まれた彼は助からなかった。
 あのとき、手紙を出さなければ、もしくは手紙にスメールへ来るよう誘わなければ、結末は変わっただだろうか。しかし、そのようなもしもの話をしたところで、どうにかなるようなことでもない。アルハイゼンはため息をついた。このようなことを、もう考えるべきではなかった。
 以前ナヒーダから聞いた世界樹を使って情報を書き換えたという人物も、大事な人を失うような状況におかれてしまい、情報を書き換えたのだろうかとアルハイゼンは思った。彼自身が当事者になったことで、その人物の葛藤についてわかるような気がした。
 その人物は自身の存在を消すことで歴史を変えようとしてどうなったのだろうか。ナヒーダはそれに関して、はっきりと言っていなかった。だが、彼女の雰囲気からなんとなく予想はつく。おそらく、その人物は歴史を変えられなかったのだろう。世界樹に備わる、歴史改変の際に矛盾をどうにかする機能は、その歴史を変えようとした人物の思うような歴史へと変化するように働かなかったのだ。

「先ほどのマジックは本当に素晴らしかったな」とマジックの公演を見た後、カフェ・リュテスのテラス席でコーヒーを飲みながらカーヴェは言った。
 アルハイゼンは同意するようにうなずいた。「特に、入れ替わりのマジックはかなり良かったな」
「魔術師を名乗っているだけあって、不思議な力で引き起こしているようだった。仕掛けによって不思議な力で入れ替わったように見せかけているだけだろうが、複雑なトリックであるのか、全くもって仕組みがわからない。アルハイゼンはわかったか?」
「いや、わからない」アルハイゼンはコーヒーを一口飲んだ後、そう答えた。
「複雑なトリックではないよ」
 カーヴェとアルハイゼンへ話しかける声があった。二人は同時に声がした方を向くと、そこには一人の少年が立っていた。その姿には見覚えがある。シルクハットを被り、ステージ映えのするような華やかな燕尾服を着ている。先ほど、マジックの公演の舞台上で彼のことを見たばかりだ。
「あなたは、マジシャンのリネではないですか。どうしてここに?」とカーヴェは驚きの声をあげた。
「あなたはカーヴェさんですよね? 国際博覧会の開会式で挨拶をしていた」
 カーヴェはリネの質問にうなずいた。スメールエリアの建築設計をデザインしたということでカーヴェは博覧会の開会式に呼ばれ、聴衆の前で話をする機会があったのだ。
「やっぱり」リネは顔に感じの良い笑みを浮かべた。「僕は、あなたがあの建物たちを設計したのだと聞いて、少し話してみたくなったのですよ。あまりにも素晴らしいデザインだったんでね。それで、ちょうどあなた方がマジックについて話していたものだから、つい声をかけてしまったのです。今日、ここら辺でマジックの公演をやっているのは僕らだけのはずでしたから」
 なるほどと、アルハイゼンはリネの話す内容を聞いて、自分たちに声をかけてきた理由に納得した。フォンテーヌで有名なマジシャンであるリネとは、アルハイゼンもカーヴェも顔見知りではなかったし、急に声をかけられたので少々奇妙に思っていたのだ。
「あれが複雑なトリックではないというのはどういうことだろうか?」とアルハイゼンは先ほどから気になっているリネの発言について尋ねた。
「大がかりに見えるけれども、肝心のトリックの部分はすごく単純なんですよ」とリネは言った。「マジックにおいて一番重要なのは、いかにして観客の感情をコントロールするかというところなんです。それに、観客の前でマジックの失敗は許されません。だから、手順は覚えやすくそれほど工程数が多くなく、観客の感情をコントロールするのに集中できるようなものが良いんです。単純なトリックで、観客が見破ることの困難なマジックが一番スマートで美しいんですよ」
「それは今日やった、入れ替わりのマジックについても言えることだろうか?」とカーヴェは尋ねた。
「もちろんです」リネははっきりと答えた。「トリック自体は単純です。でも、どういう仕組みになっているかは全くわからないでしょう。だから、僕たちが今日の公演で披露したのはスマートで美しいマジックなんですよ」
 たしかに、とアルハイゼンとカーヴェはうなずいた。そして、そんな二人を見てリネはさらに朗らかに笑うと続けて言った。
「古今東西、マジックというものは存在しています。それにはどれもトリックというものがあります。そして、そのトリックというのはだいたい、このどちらかに分類できます。実際に消えているか、消えていないか――それだけです」

 リネの言葉をそこまで思い出して、アルハイゼンは「トリック自体は単純」と呟いた。彼の中にはとある思いつきが生まれていた。単純に、手紙の存在を消すだけでカーヴェの死という結末を変えられないだろうかということだ。
 アルハイゼンが送った一通の手紙だけが、カーヴェがあの日沈んだ船に乗った動機である。あの手紙さえ送らなければ、または手紙に『退任の日、スメールへ来ないか』と書かなければ、カーヴェはフォンテーヌでアルハイゼンがスメールからやってくるのを待っていただろう。
 あの一通の手紙の存在を消すだけだったら、それほど影響範囲は広くないように思える。そもそも、あの手紙に書かれていることを知っているのはカーヴェとアルハイゼンだけだ。人ひとりの存在を消したときと違って、想像の範疇を超えた改変が起こる可能性は低いだろう。
 アルハイゼンは首を振った。その思いつきはひどく危険なものだった。それに、どうやって世界樹へ近づくのだ。世界樹へ近づくすべを持つのはナヒーダだけであったし、彼女ならきっと、この思いつきを実際に実行へ移そうとしたら全力で止めようとするだろう。

 アルハイゼンに転機が訪れたのは、次の知論派賢者が就任してから数日経った頃のことだった。後任である新しく就任した賢者から「ナヒーダから呼び出されたのだが、ともに会ってくれないか」と言われたのだ。
「今回呼び出したのは就任式のようなもののためだと、クラクサナリデビ様は言っておりました」スラサタンナ聖処へ向かう道中、新しい知論派賢者はアルハイゼンも誘った理由を話し出した。「でしたら、あなたも一緒に呼ぶのはどうかと思ったのです。形式として実施しなければならない退任式は既に行いましたが、退任の後、クラクサナリデビ様と一対一で話をする機会はなかったでしょう。私が、アルハイゼンさんも呼ぶことをクラクサナリデビ様に提案したら、素敵な案ね、と言ってくださいました。ですから、あなたをお呼びしたのです」
 スラサタンナ聖処につくと、ナヒーダはアルハイゼンと新しい知論派賢者の方を見て、「今日は見せたいものがあって呼んだの。アルハイゼンには一度見せたことがあるわね。この機会だし、再び見るのもいいと思うわ。わたくしについてきてちょうだい」と言った。
 聞き覚えのある言葉だった。
 そうだ。アルハイゼンが賢者に就任してから数日後、彼も今日のようにナヒーダから呼び出されたのだ。そして、世界樹の内部へ案内された。
 予想通り今回も、前と同じように世界樹の内部へ案内される。世界樹の内部の様子を見た新しい賢者の反応は、アルハイゼンが初めて案内されたときよりも驚きに満ちていた。新しい賢者はアルハイゼンよりかは俯瞰ふかんして物事を見ることができないのだろう。だから、素直に感情を表に出すことができるのだ。これは、アルハイゼンに比べて劣っているわけでも、優れているわけでもない。いつ、どんなときも客観的にものごとを見ることができるのは、アルハイゼンの良さであり、欠点でもある。
「これらの道のようなものはどこにつながっているのです?」ナヒーダから世界樹の秘密を説明された後、新しい賢者は尋ねた。「これが記憶の流れを視覚的に表したものであるならば、行き先というものがあるはずでしょう」
「アルハイゼンのときには受けなかった質問ね」ナヒーダはアルハイゼンの方を見た。「その行き先へ案内しましょう。世界樹の中心とでもいうべき場所かしら」
 いくつかの道をナヒーダの後をついて進み、一行は一本の巨大な樹の前に出た。一目見て、これは生物としての樹ではないとアルハイゼンは思った。これは、世界樹の中心――動物でいうのならば心臓に当たる部分、機械でいうならばコアに当たる場所なのだろう。
 ナヒーダと新しい賢者が話す横で、アルハイゼンは目の前の樹を見上げた。なにかを考えるでもなく、ただ見上げただけだ。
 気がつくと、アルハイゼンは樹の方へさらに近づこうと歩き出していた。特に考えがあったわけではない。ただなんとなく、彼は樹の幹へ手が触れる位置にまで歩み寄ると、そっと右手を伸ばして幹に触れた。
「アルハイゼン?」
 背後からナヒーダが、どうしたのとでもいうようにアルハイゼンのことを呼ぶ声が聞こえる。アルハイゼンはその呼びかけには反応しなかった。正確にいうと、
 そのときのアルハイゼンは、あのカーヴェへの手紙は存在しなかったのだ、ということを幹に触れながら想像していた。カーヴェを生き返えらせようだとか、そういうことは全く考えていない。ただ、手紙のない世界を望んだだけだった。
 そうして、歴史は変わったのだ。

あとがき

タイトルのRevertとは、取り戻すとか、先祖返りするといった意味合いの単語なのですが、Gitというバージョン管理システムでも既存の変更内容を取り消すコマンドとして使われています。 変更を削除するコマンドでResetというのもあるのですが、Resetと違ってRevertは変更履歴が残ります。
世界樹による改変で、消しきれないというところがRevert実施時の挙動のようだと思ってこのようなタイトルにしました。


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