今にして思えば、あの時点で既にこの国はおかしくなっていたのかもしれない。
その日、カーヴェが起きたのは日がだいぶ高くなってからであった。昨日――寝るまでが昨日というくくりならば、という前提はある。なにせ、立て込んでいた仕事を終えたのは今日の早朝といってもよい時間帯だ――就寝したのがかなり遅い時間だったのだ。今日はフリーランスで働く彼が休日にすると決めた日で、せっかくの久方ぶりの休日を無駄にしてしまっては少々もったいない。既に多くの時間を睡眠に使ってしまったが、なにか予定が入っていたわけではないし、今日という一日が終わるまでにはまだ時間はある。残りの時間で挽回すれば問題ないだろう。そう思いながらカーヴェは寝床から起き上がった。
自室から出てキッチンへ向かうと、流しには同居人が朝食に使用したのであろうお皿とティーカップ、あとはティーカップとセットのソーサーが洗われていない状態で置かれていた。カーヴェがトレジャーストリートにある店で気に入って買ってきたものたちだ。カップはすぐに洗わないと茶渋がついてしまうから出かける前に洗っておいてほしかったのにと思いつつ、仕方なくカーヴェは同居人であるアルハイゼンが片付けていかなかった食器の片付けを始めた。
片付けを終えたカーヴェは簡単に食事の準備をすると、リビングにできあがったものを持っていき、今日の予定を考えながら食事をとった。
こんなに天気の良い日なのだ、外に出かけるのがよいかもしれない。行き先はどこがいいだろうか? スメールシティから離れた場所は今から日没までの時間を考えたら却下だ。残念なことに明日は仕事の打ち合わせが入っていたので、休日は今日だけなのだ。それらのことを考慮したらスメールシティ内がいいだろう。久しぶりに趣味へ時間を費やすのもいいかもしれない。例えば、芸術鑑賞とか。
そんな感じで、食後のコーヒーを飲み終わるころには、散歩がてらスメールシティにある美術館へ行く、という今日一日の計画がカーヴェの頭の中でできあがっていた。
忘れずにキッチンの片付けを終えると、カーヴェは先ほどたてた計画に従って外出の準備を始めた。つまり、街中で依頼人に遭遇したとしても妙論派の星として恥ずかしくないような、いつも通りの完璧な身なりに整えるということだ。彼は見た目から他人へ与える印象というものの重要さを知っていたため、プライベートであろうと外出時の身だしなみにはいつも人一倍気にしていたのだった。最後にお気に入りの、鳥を模した鮮やかな色合いのマントを羽織れば完成だ。カーヴェは家を出て美術館へ向かった。
今から行こうとしている美術館というのは、スメール国内で上から三本の指に入る程の規模がある。だが、他国に比べればそれほど大きいものではない。スメールにおいて芸術鑑賞を楽しむ趣味を持つ者はごく少数派であったためか、それとも国が芸術を奨励することがなかったためか、この国には余った土地に予算の余りで作ったような大きさの美術館しかなかった。とはいえ国内では有数の場所ということで、カーヴェは散歩のついでにたびたび訪れていた。
スメール雨林地域の街特有の、高低差の激しい道を抜けて行くと目的の美術館が見えてくる。現在カーヴェが歩いている道は美術館に行く際は必ず通る必要があるのだが、ここから見る美術館の建物のたたずまいは率直にいって素晴らしいものだと彼は思っていた。いつもと同じように素晴らしい景色だと今回も思いながら歩いていくと、近づくにつれていつもと美術館の様子が異なることに気がついた。
珍しいことに美術館の入り口付近になにやら人だかりができている。前述したような状況であったから、この美術館が混んでいるという状況にカーヴェが遭遇したことは一度としてない。さらに近づいていくと、美術館の前の広場になっている場所で人々がなにやら輪のようになっているのが確認できる。輪の中心になにがあるのかは人混みのせいで見えなかったが、広場にいる人々は美術館に入るため集まっているわけではなさそうであった。ちょうど美術館の入口の前いっぱいまで輪は広がっていたため、人の輪を避けて美術館に入ることは難しそうである。カーヴェは仕方なく広場の集会が終わり、人々が解散するのを待つことにした。
待つ間特にやることもないため、カーヴェは広場に集まっている人々が何故集まっているのかということを知ろうと、輪の外周の方へ近づいた。いわゆる
「何故こんなに人が集まっているのですか」カーヴェはちょうど隣にいた教令院の制服を着た男に向かって話しかけた。「ここに人がこんなに集まっているのは珍しい」
「燃やそうとしているのです」男はカーヴェの方を見ず、一言口にした。
「なにを?」
「必要のないものです」
そう言いつつ、やっと男はカーヴェの方を振り返った。男とカーヴェの視線が合う。しかし、カーヴェの気の所為かもしれなかったが、男の目に映っているのはカーヴェではなく他のなにかであるように思えた。
「要するにゴミの処理をしようとしているのです」
「こんな場所で?」カーヴェは驚いた。無理もない、ここは美術館の前である。「そういうことは処理場でやるものだろう」
「ゴミの量が多かったので、ここで処理することにしたようですよ。この場所はシティの中心より外れていますし、おあつらえ向きにも、ちょうどいい塩梅の広場もある」
教令院の制服を着た男がそう言ったところで、先ほどより増して中心の方がざわつき出した。人々の歓声――まるで神でも現れたみたいだ。でも、そんなはずはない。そんなことはカーヴェを含んだスメール人にとって、当たり前のようにわかっている。なぜなら、草神はもうずっと人前に姿を現すことがなかったからだ。そういった事情があるため、スメールの国民の大部分が草神の姿を知らない。初めて会ったときから神だとわかるような見た目であるなら別だが、そうでないならば
カーヴェは人々の隙間から中心にある、神ではないが神のように注意をひくものが一体なんなのか試行錯誤して見ようとした。様々な色(鮮やかだったり、そうでなかったりする色もあるということだ)で彩られたキャンバスのようなものが山になっているのが人々の隙間から見える。カーヴェの見間違えでなければ絵画に比べると数は減るが、ところどころ彫刻作品なども混じっている。
「あれは美術品?」とカーヴェは思った。
彼はそう思いつつも、自分の目を疑った。先ほど教令院の制服を着た男はこれからゴミの処理をすると言っていたが、まさかゴミというのはこれらの美術品のことなのであろうか。絵を展示する場所の目の前で絵を燃やす、そのようなことをするつもりなのであろうか。そこまで考えて、カーヴェはありえないと思った。
「メラック、ここにいろ」
手に持っていた
なんとかして最前列にたどりつくと、先ほどまでよく確認することができなかったことを認識することができるようになる。カーヴェの視線を遮るものはなく、たしかに大量の美術品たちが山になっていることがわかったのだ。それらのうち何点かはカーヴェにも見覚えのあるものだった。記憶違いでなければ、以前、今目の前にある美術館で展示されていたものではなかったか。この美術館の展示物はめったに入れ替えられることがなかったため、そこそこの頻度で通っていたカーヴェは気に入りの絵画を自然と記憶していたのだった。
そのとき、突如として美術品を取り囲む人々の歓声がより大きく、それこそ耳鳴りがするくらいのものになった。カーヴェが人々の視線をたどると、広場の中央へ現れた賢者たちの姿が見てとれる。これまでに聞いたことが本当のことならば、目の前にある美術品たちは見世物のようにして燃やされるのだろうか。パフォーマンスである、というカーヴェの予想は皮肉にも当たっているようだ。
賢者たちがいる場ではあったがカーヴェは今すぐにでも飛び出していって、この
そんな無謀ともいえる行動には結局、移さなかった。カーヴェの持ち前の思慮深さがそうさせたのではない。彼はある種の正義感を持ち合わせていたため、このような無謀だとわかっていつつも彼自身の思うところに従って行動に移してしまうことがしばしばあったが、今回はなんとか踏みとどまった。彼が目の前で行われていることを止めなかったのは、その場にいた教令院の職員らしき人物――服装から彼はそう予想していた――が、美術品の山からなにかを素早くひとつ抜き取って懐に入れたのを目にしてしまったからである。
職員はそのまま何事もなかったかのように、他の職員と同じくオイルの入ったタンクを持ち上げた。カーヴェは辺りを見渡した。教令院の職員の横領行為に気づいたものはいないのか、誰も職員を呼び止めるものはいなかった。
横領行為をした者を含めた四人の職員は、手に持ったタンクの中に入ったオイルを美術品の山にかけ始めた。いよいよ燃やされるのだ。このパフォーマンスを止める者はやはり誰もおらず、取り囲む人々の歓声はよりいっそう大きくなっていく。
オイルがかけられている間、カーヴェは横領行為をした職員のことをじっと眺めていた。何故、あのような行為をしたのだろうか。そして、どんな気持ちで美術品にオイルをかけているのだろうか。カーヴェには一切、想像もつかなかった。しかし不思議なことに、職員の気持ちがわからないにも関わらず、カーヴェも同じように美術品をなにかひとつでもよいから回収したい欲にはかられていた。
オイルをかけ終わったのか、タンクを持った職員たちは美術品の山から離れた位置に移動した。それを合図にするかのようにして賢者たちを束ねる存在である大賢者が前に出て、手に持った松明へ火をつける。
大賢者――アザールが美術品の山に松明を投げ込んだ。カーヴェはなにもできないまま、ただその一連の光景を眺めていた。人々の歓声はさらにこれ以上ないほど、うるさいと感じるほどにまで大きくなっている。
美術品についた火はすぐさま勢いを増していく。そして、美術品がこの世へ生み出されるのにかかった時間と比べたら驚くほど短い時間ですべてが燃やし尽くされていくのを、カーヴェはただじっと見つめていた。彼がやっと動けたのは観客が散り散りになり、教令院の職員たちが片付けを始めようとしたときだった。