教令院からズバイルシアターへの公演許可が出てから準備は何事もなく順調に進んでいた。とうとう明日が初演という日を迎え、カーヴェは簡単にその日のうちにやらなければならないことだけを済ませると、ズバイルシアターのあるグランドバザールへ向かった。
カーヴェがズバイルシアターについたときはもう午前中が終わるであろうかという時間帯だった。既にリハーサルの開始予定時刻は過ぎている。しかし、そうであるにも関わらず、まだリハーサルは開始していなさそうであった。
「なにかあったのか? まだリハーサルが始まっていないなんて」とカーヴェは不思議に思いながら、近くにいた団員へ尋ねた。
「カーヴェさん」団員はカーヴェの方に向き直ると続けた。「ああ、そうなんだ。ニィロウがまだ来ていなくてね。おかしいだろ? 明日は公演初日で、今日はゲネプロだということを彼女はよく知っているはずだ。今回の公演に関しては皆気合いが入っているが、特に気の入れようがすごかったのはニィロウだ。そんな彼女がゲネプロを忘れてるなんてことは考えられない。だから、体調が悪くて動けない状態なのではないかとズバイルさんが心配して、様子を見るためにニィロウの家に行っているところなんだ」
カーヴェは団員から現在の状況を聞きながら、数日前に訪れたニィロウの家のことを思い返した。あの、ひとり暮らしにしては大きめの家のことだ。
ちょうどそこで、シェイクズバイルがずいぶんと慌てた様子でグランドバザールの入り口の方から小走りでやってくるのが見えた。彼は皆が集まっている方まで来ると、息を整えるのもほどほどにして話し出した。
「ニ、ニィロウが……マハマトラに……連行されたらしいんだ。彼女の家に行ったら、マハマトラによって家宅捜索中で……驚いて彼らに事情を尋ねたら、そう言っていたんだよ」
「家宅捜索? 連行?」
団員の一人が、事態が飲み込めないといった風に、シェイクズバイルが口にした単語を繰り返した。
「いったいどうして? 彼女がなにかしたのか」カーヴェは疑問に思って尋ねた。
カーヴェはニィロウとそれほど多く会話したわけではないが、それでも彼女が犯罪行為をするような人物には到底思えなかった。だから、ニィロウの家が家宅捜索され、ニィロウ自身はマハマトラに連行されるなど、なにかの手違いではないかと思ったのだった。
「そこは安心してほしい。マハマトラに確認した状況からいって、ニィロウがなにか犯罪に加担しているわけではなさそうだ。マハマトラたちが怪しんでいるのはニィロウと数日前までルームシェアをしていた女の方で、どうやら教令院が禁止している
「ニィロウさんの無実を示すような証拠が出てくることは確実なのか?」
カーヴェは嘆いているシェイクズバイルに対して尋ねた。ここで悲しんだり憤ったりしても状況が変わるとは思えない。ニィロウが無実の罪を負うことのないように動くべきだと、カーヴェは考えていた。
「証拠が出てくるなら問題ないんじゃないのか? 出てこないのかもしれないなら、僕らは彼女のためになんとか証拠を探し出さねばならないのだけれども」とカーヴェは続けて言った。
「ニィロウが無実であるという証拠については心配していないさ。家宅捜索をしていたマハマトラたちだって、ニィロウのことは微塵も疑っていなかったからね。形式上しばらく監視下に置かねばならない、とのことで連行せざるを得なかったみたいだから」シェイクズバイルは落ちついた口調でそこまで言った後、急に声量をあげて怒鳴るような調子で続けた。「問題は、明日が公演日当日だということなのだよ。マハマトラたちにいつ頃釈放されそうなのか聞いたところ、明日の夕方以降になりそうとのことらしい。公演は午後二時から始まる。公演の開始に間に合うはずがないではないか」
「マハマトラに事情を話したらなんとかなったりしないでしょうか」と団員のうちの一人が、
「無理だろうね」シェイクズバイルが返答する前に、カーヴェはきっぱりと否定した。「教令院は、基本的に特例なんてものは認めないんだ。もし、特例でなにかしてほしいのならば、形式に
カーヴェは仕事柄、教令院に書類を提出することも多々あったため、彼らの性質をよく理解していた。規則というのは絶対で融通というものは
「どうすればいいんでしょうか」
「ニィロウの代わりなんていないわ。そもそも、ズバイルシアターに所属しているメンバーの中で、胸を張って踊り子だと言えるのはニィロウだけだもの」
団員たちは不安気な様子で口々に言った。ズバイルシアター内にニィロウから踊りを教わっている者は何人かいるが、お金をとった上、人前で披露するのには実力がまだ伴っていなかった。
カーヴェはそんな団員たちの様子を眺めつつ、この状況を打破する策がなにかないかと考え込んだ。様々な方向から分析するような感じでだ。例えば、ニィロウの踊りの特徴からや、教令院の規則から、または団員たちの背後にあるズバイルシアターが所有している舞台から連想していくといった風に。そうやってカーヴェの頭の中で思い浮かんだいくつかの案は、次に良い点と悪い点が吟味され、いくつかが振り落とされる。考え抜いた末、カーヴェは最終的に残った案を口にした。
「ニィロウが踊る様子を描いた絵画があるんだ。それを利用するのはどうだろうか」
「絵画をニィロウの出番の代わりに使うということだろうか?」
シェイクズバイルがぶつけた疑問に、カーヴェはうなずきながら答えた。
「そうだ。その絵画はとても素晴らしい作品で、ニィロウの踊りの中で最も素晴らしい瞬間を切り取ったものだという印象が見受けられる。現在、その絵を所有しているのは描いた本人で、劇で使用してよいか交渉する必要はあるが試してみる価値はあるだろう」
「待ってくれ」シェイクズバイルはそう言いながら、自身の右腕をカーヴェの方へ向かって突き出した。「絵画をニィロウの代わりにといっても、ただ絵画を舞台に設置するだけでは、とてもではないが彼女の代わりは勤まらないだろう。『踊りを観る』のと『絵画を観る』のは全く性質の異なるものなんだ。言うなれば、『動』と『静』の違いというものかな。つまり言いたいのは、絵画を置くだけでは、ニィロウの踊りが観客に与える印象と同じ性質のものを与えることなんて到底できないだろう。今回、ニィロウの踊りは劇の内容を観客に印象付ける目的があるのだから、果たしてその役目は果たせるのだろうか」
カーヴェは不安気な様子のシェイクズバイルを元気づけるかのような明るい口調で、かつ自信たっぷりな様子で言った。「大丈夫さ」
その発言に、周りにいたズバイルシアターの団員全員がカーヴェに注目する。注目を浴びつつ、カーヴェははっきりと皆に聞こえるような声で宣言した。
「演出次第で、相手の受け取り方というのは大きく変わるものなんだ。だから、絵画の見せ方さえ工夫すれば、きっとうまくいく。観客たちに劇の内容を印象付けることはできるはずさ」
ズバイルシアターの公演再開日、つまりカーヴェとシェイクズバイルにより書き換えられた脚本を使用した演目の初演がやってきた。カーヴェは公演の開場(公演開始時刻のことではなく、客の入場が開始する時刻だ)にあわせてグランドバザールへ向かった。
カーヴェがグランドバザールについたとき、既に何人かの客が列を作っていた。数か月、公演を休んでいたにしては客の入りは良さそうで、常連ではなさそうな者の姿も見える。そのことにカーヴェは
午後二時。公演開始定刻だ。公演開始のベルが鳴り、シェイクズバイルが舞台上に登場した。
「皆さま、ズバイルシアター公演再開初日にお集まりいただきありがとうございます。私自身もこの記念すべき日を嬉しく思っております。前口上はこのくらいにして公演の方に移りましょう」
そう彼が言い終わるか終わらないかのタイミングで、舞台上に演者たちが登場する。そして、ズバイルシアターによる公演が始まった。
今回の公演では今まで彼らが何度も取り上げていた、ある王朝の繁栄と衰退の歴史を題材にしていた。ただ、細部はいつもと異なっている。今回の劇の題材になっているものは正確に言うと、『新説』と呼ばれるものであったからだ。
そんな、いつもと内容が異なる劇はつつがなく進み、王朝の繁栄に関する部分が終わる。劇前半の終了だ。
前半とは打って変わって、劇の後半では王朝の衰退をなぞったものが演じられる。本来ならば劇の後半のある場面と場面の間に、場の雰囲気を明るく楽しいものから暗く悲しいものへ変えるためにニィロウの舞を挟む予定であった。しかし、彼女は未だマハマトラにより拘束されたままだ。仕方なく、団員たちは昨日カーヴェの提案により考えた代替案の方の準備を始めた。
舞台上が一分にも満たないごくわずかな間、暗転する。
次に舞台上が明るくなったとき、先ほどまではなかった巨大な絵画が舞台中央に設置されていた。観客たちはその目立つ
観客たちのざわめきを打ち消すようにして、スメール風の音楽が流れ出した。舞台の
音楽が流れてきたため、観客たちは戸惑いつつも、口をつぐんだ。観客の多くは観劇時のルールを熟知している大人だったのだ。そのため、『観劇時にはお静かに』という最も重要で必ず破ってはならないルールを守ろうとしていた。疑問は残りつつも、観客たちはニィロウが踊る様子が描かれた舞台中央の絵画を、じっと見つめ続けていた。
しばらくすると、流れてくる音楽の曲調が変化した。転調し、曲が持つ雰囲気は暗くなり、音符の数も細かく、かなり激しく感じるものになる。観客たちはその激しい曲調の音楽によって、次第に不安を感じるようになっていく。
そのうち、観客たちは自身の顔に白い小さな塵のようなものが当たっていることに気がつく。
ある観客が頬についたその
塵――花びらの舞う量がだんだんと増えてくる。どこからともなく風も吹いてくる。その演出によるものであろうか、甘い香りもあわせて漂ってくる。生花から漂うようなそんなほのかな甘い香りだった。花の香りをまといながら、吹雪ともいえるくらいの量になった花びらたちは、渦を描くようにして舞台上にある絵画の前を踊り出す。
観客たちは目を見開いた。
ズバイルシアターで以前から観劇をしている常連の客たちはニィロウが舞っている様子を思い出した。まるで、舞台上でニィロウが踊っているかのような光景を常連の客たちは観ていたのだ。だんだんと絵に描かれているニィロウが舞う様子は、本当は現実のものなのではないかという錯覚がしてくる。一方で、ズバイルシアターの公演を今回初めて観る客たちは、舞台上の絵画に描かれていた踊り子が現実世界に踊り出てきているように感じていた。つまり、観客たちは皆、舞台上で舞を披露する踊り子の姿をその目で観ているのだ。ただの絵画であるとは感じていなかった。それはなんとも不思議な光景で、観客たちは感嘆の声をあげた。
そして、少しずつ花びらの量はかさを増していき、とうとう絵画が覆いつくされて見えなくなる。
その瞬間、ひときわ強い風が吹いた。
花びらたちが風によって、さっとあたりに吹き飛ばされる。それは観客席の方にまで到達するほどで、観客たちは驚いて目をつむった。
観客たちが次に目を開いたときには、花びらたちは全て地面に落ちていた。その光景を見た者たちは、絵画はどうなったのだろうと舞台上に視線をやった。
絵画は強風が吹いたのにも関わらず、相変わらず舞台の中央に鎮座していた。スポットライトによって強い光で照らされ、絵画に描かれている様子がより際立っている。絵画を観た観客たちは舞台の中央に存在している絵画へ、くぎづけになっていた。なぜかそこから視線を外すことができないのだ。
観客たちが絵画に注目していた時間はとても長く感じられた。実際、それは気のせいではなく、ある程度の時間はあったのだろう。
しばらくすると、舞台上を照らし出していた照明が一斉に消された。それに伴い会場全体が暗くなり、舞台にあるものは暗闇に紛れてなにも見えなくなる。あの絵画も例外ではなかった。
再び舞台上が明るくなると、一瞬の間が空いてどこからか拍手が鳴り響く。つられるようにして、また一人そのまた一人と両手を叩き出す。拍手の大きさはだんだんと大きくなっていき、やがてそれはグランドバザールの外にまで響くくらいにまで大きくなる。さらには、観客たちがその場に立ち上がり出して、中には両腕をあげて素晴らしさをたたえようとするような者さえ現れた。
スタンディングオベーションだ。
カーヴェはこの光景を見て、以前フォンテーヌで観劇をした際に起こったことを思い出した。カーヴェが観た公演はある有名女優が主演するもので、公演終了後には長くこのような光景が続き、拍手がなかなか鳴りやまなかったのだ。
そのときと同じ光景が彼の目の前に広がっていた。