ズバイルシアター再開公演初日の翌日、ニィロウはマハマトラの監視下から解放された。ニィロウの家からは多くの、教令院が禁止している類の芸術を広めようとしていたという証拠品が回収された。しかし、やはり全てがニィロウの元ルームメイトの持ち物であり、ニィロウ自身にはなにも非がないとマハマトラたちは数日間に及ぶ捜査の末、結論を出したのだった。
解放されてから初めてニィロウがズバイルシアターに顔を出したとき、驚くほど彼女の様子はいつもと変わりがなかった。これはニィロウと知り合ってから日の浅いカーヴェだけではなく、付き合いの長い団員も含めた意見だ。そんなニィロウの様子を見たズバイルシアターの面々は彼女の代わりにといったふうに、マハマトラや教令院に対して口々に文句を言った。
「ニィロウが違反をしていたという証拠は、やはり見つからなかったので解放します――それでおしまいなのは酷いよ」
「なにかお詫びの品くらい渡すべきではないだろうか」
「その通りだ。ニィロウは数か月前から準備を行っていた大事な公演に出られなかったんだぞ」
そんな仲間たちの様子を見たニィロウは、それでもなお、怒る様子を微塵も見せなかった。むしろ彼らをなだめようとやんわりとこう言ったくらいだ。
「別にいいの。私は今回のことをそこまで気にしていないから。私がマハマトラの立場だったとしても、私のような人がいたら疑ってはいただろうし、仕方ないことだと思っているの」
「でも、前まであなたと一緒に住んでいた人と同じ家にさえ住んでいなければ、ニィロウは疑われることがなかったんだろう」
「たしかに。仕方ないことだとしても、愚痴の一つや二つくらい出てくるのではないか?」
「言葉にすることで発散できるのなら、文句を言ったっていいんだぞ」
ニィロウは言った。「私の元ルームメイトに対しても、私は怒りだとか文句を言いたいだとかといった感情はなにも抱いていないの。たしかに彼女は教令院の規定に
「それは、私たちが教令院に今よりもっと目をつけられていた可能性があるということだろうか。今受けている仕打ちは実のところ、まだ大したことではなく、さらに酷い目にあう場合もありえた」
団員の一人がそう言うと、ニィロウはうなずいた。
「うん、そうなのかもって。彼らの要求を満たせるようにしていかないと、文字通り生きていけない時代になってしまったのかもしれないね」
ニィロウは遠くの虚空を見つめた。彼女の元ルームメイトのことを考えているかのようだ。
「彼女は元気かな? 私の元ルームメイトは、何事にも巻き込まれることなく平穏に暮らせているといいのだけれど」と呟いた。
これらの会話をしていたとき、ちょうどカーヴェはズバイルシアターにいたのだが、彼はニィロウの様子を見て、なんて友人思いなのだろうと関心した気持ちでいた。自分のルームメイトとは大違いだ。ニィロウとアルハイゼンのことを比較して、彼にもニィロウのことを見習って欲しいものだと思った。超個人主義者のアルハイゼンが自身を見つめ直して態度を改めるなんてことは、実際には考えにくいが、それでもそう思ってしまうのは仕方がない。
ニィロウの様子に団員たちは問題なさそうだと判断したようで、彼らはお喋りをやめて自分たちのやらなければならない作業に戻った。ニィロウが復帰したため、次の公演では今度こそ、本来予定していた通りのプログラムをするべく、団員たちには準備するべきことがあったのだ。
一回目の公演は客観的に見て大成功であるといえた。スメールシティの中で、実際に公演を見ていない者たちの間にも噂が広がりつつあるくらいだ。もちろん、その噂は良い部類のもので、『現実にはいないはずの踊り子が、まるで目の前で舞を披露しているようであった』といったようなことを公演を観た者たちは言っていた。観ていない者たちはそれを聞いて、興味をそそられたのか口々に『次があれば観てみたいものだ』と話すのだ。カーヴェが提案した、ニィロウがいないときの代替案はかなりの印象を観客に与えたようで、公演に関する噂の内容は絵画と演出についてがほとんどを占めていた。
次の公演への準備作業を進める団員たちを、カーヴェはいつも通りに手伝った。彼が
「カーヴェさん」
「なんだい?」カーヴェは作業の手を止めるとシェイクズバイルの方を振り返った。
「相談したいことがあるんだが、今いいか」
「ああ、問題ないよ」カーヴェは立ち上がった。シェイクズバイルの次の言葉を待つ。
「あの例の絵画のことなんだけれども、あれを公演の広報で使用できたりしないであろうか。公演日だとか開場時間や開演時間を書くポスターに、絵画を使いたいんだ。写真機で絵画を撮り、それをポスター用紙に写し、その上に公演の情報を印字するイメージだ。あの絵画の使用権は俺たちにないから、使用権を持つ人と話がしたい」
「あの、ニィロウが踊っている様子を描いたもののことか?」カーヴェは公演のときの様子を思い返しながら尋ねた。
「そうだ」シェイクズバイルはうなずきながら言った。「カーヴェさんも知っているかもしれないが、スメールシティに住む者たちの間でズバイルシアターのあの公演がちょっとした噂になっている。内容は主に、あのニィロウが描かれた絵画とその演出に関することだ。つまり、噂の中心はあの絵画だといえる。だからそれを広報に利用できれば、客の入りもさらに良くなるのではないかと思ってな。どうだろうか? 絵の制作者からの許可をもらいたいのだが、交渉できないだろうか」
「それはいいアイディアだ」カーヴェはシェイクズバイルの提案に同意した。「すぐに絵の制作者との交渉の場は設けよう。彼には僕の方から、空いている時間を聞いておくよ。ズバイルさんの予定も教えてもらえるとありがたい。僕の方で時間や場所の調整は行うよ」
「ありがとう」
シェイクズバイルはにこやかな笑みを顔に浮かべつつ、カーヴェに礼を言った。
シェイクズバイルと画家の男による交渉の場はある晴れた日の午後、プスパカフェに設けられた。カーヴェは二人の共通の知り合いとして、はたまた会の設定をした者として、交渉に同席した。
カフェ内で空いているテーブルを探し出すと、シェイクズバイル、画家の男、カーヴェの三人は顔を合わせ、簡単に挨拶をしてから席についた。四角形のテーブルの一辺に一人ずつ、カーヴェから見てシェイクズバイルは左斜め前、画家の男は右斜め前に座る。
椅子に座ってからも、誰も喋り出すそぶりを見せなかった。カーヴェは話の当事者ではなかったので黙っており、話を切り出すべきの二人はなにかを言いたいのだけれども相手を伺っている、というような感じだ。その場にだんだんと、なんともいえない気まずい空気が漂ってくる。カーヴェは二人の少々落ち着かなさそうな表情を見て、場の雰囲気をもっと和やかなものにしようと(彼自身は話の当事者ではなかったが)「まず飲み物を注文しましょうか」と言った。
画家の男はメニューさえ見ずに、感情の読めない声で「コーヒーで。砂糖とミルクはたっぷりで」とカーヴェの言葉にすぐさま返事をした。
「では、私もコーヒーで。砂糖はなしで、ミルクだけもらおうかな」とシェイクズバイルは画家の男に続けて言った。こちらは先ほどまでの落ち着かない様子はなりを潜め、いつも通りのはっきりとした口調だった。カーヴェが話すことで緊張がほぐれたのかのようだ。
カーヴェは近くの通路を通った店員を目線で合図を送ることで呼び止めると、コーヒーを三つ注文した。ひとつは『砂糖とミルクたっぷり』、もうひとつは『ミルクだけ』、最後の一つはブラックで――最後の一つはカーヴェの分だ。
店員が注文を聞き終えて立ち去ると、さっそくといったふうにシェイクズバイルは話を切り出した。
「今回、カーヴェさんに頼んでこの場を作ってもらったのはあなたと交渉がしたいからなのです。既に事情は聞いているかもしれませんが、改めて言いますと、ズバイルシアターの踊り子が舞を披露している様子を描いたあなたの作品を私たちの公演の宣伝用ポスターに使用したいのです。あなたの絵を写真機で撮って紙に印刷し、その上に公演日や開演時間、劇の内容を簡単にまとめたものを文字で記載するといったような感じです。文字で入れる内容はもう決まっていて、これらの内容を入れたいと思っています」
そう言うと、シェイクズバイルは文字が書かれた用紙を取り出し、テーブルの上に広げた。「こちらです。もちろん、作品の使用料についてはお支払いします。どのくらいお支払いするかは相談、交渉の上決めたいですが――とりあえず、今回この場を用意した状況の方はご理解いただけましたか」
「ええ、理解しました」
そう言うと、画家の男はテーブルに置かれた用紙を手に取り、書かれている内容を確認し出した。しばらくして確認を終えると、顔をあげシェイクズバイルの方を見ながら言った。
「ポスターに記載する内容も確認しました。ごく普通の広報として使用される感じなのですね。使用料もお支払いいただけるとのことですし、今回の件は是非お引き受けしたいと思っています。僕も自分の作品がこういった広報活動に使用されるのは嬉しく思いますしね。使用料なのですが、**モラぐらいはいかがでしょう?」
画家の男が提示したのは、一般的なデザイン使用料というような金額だった(カーヴェは建築デザイナーという職業柄、デザイン使用料の相場というものをだいたい把握していた)。
「私の方もそちらの条件でかまいません。口頭でのやり取りだけですと、のちのち困ることも出てくるかもしれませんので、契約書を作成しましょう」
シェイクズバイルはそう言い、スメールシティで一般的に契約書で用いられている質のいい用紙と年季の入ったペン――ていねいに手入れされており、大事にされていそうだった――を自身の持ち物から取り出すと、契約書に記載すべき事項を書き出し始めた。
ちょうど一日のうちでプスパカフェが一番賑わっている時間帯のためか、店内は少々騒がしい。カフェ内の
画家の男は時折ちらりと、状況を確認するかのようにシェイクズバイルへ視線をやり――シェイクズバイルはそのことには気がついていなさそうだった。なにしろ、契約書の作成に夢中だったのだ――思わず笑いを浮かべてしまいそうになるのをなんとか抑えようとしているとでもいうのだろうか、妙な表情を浮かべていた。カーヴェは彼のそんな様子を見て、そのような表情を浮かべてしまうのも無理はないと感じた。劇団の広報に使ってもらえるのは、彼の作品を多くの人に見てもらえる機会でもあるわけだから、彼にとっても利点がある。スメールにはびこる芸術軽視の風潮もあり、ここスメールにおいてだと、まず見てもらうという段階までが難しいのだ。だからこんな絶好の機会、嬉しくて仕方がないといったところであろう。
さらに言うと、シェイクズバイルは今まさに締結されようとしている契約を始めとし、手続きと呼ばれるものは全てにおいてしっかり管理する人だ。契約上のトラブルが発生することはおそらくないだろうという安心感を、画家の男に与えることができているのも関係しているだろう。
カーヴェは画家の男からシェイクズバイルが書き込んでいる契約書の方に視線を移すと、スメールでも芸術の価値が認められるようになれば良いな、ということを密かに自分の心の中だけで願った。
「できた」
シェイクズバイルはペンをテーブルに置くと紙を持ち上げながら言った。カーヴェが考え事をしている間に、契約書は書きあがったようだ。
「記載内容に問題なければ署名をお願いします――特に確認して欲しい箇所はここと、ここ。絵の使用料の金額と使用範囲の部分になりますね」
シェイクズバイルは画家の男の目の前に契約書を置くと、先ほどまで自身が持っていたペンを差し出した。画家の男はペンを受け取り、契約書に目を通し出す。念入りに確認しているのか、彼が視線を動かす速度はすごく
今回の交渉は揉め事の類が一切発生することなく、驚くほど速やかに終わりそうだった。まだ注文したコーヒーさえ届いていないくらいだ。カーヴェは店員が立つカウンターテーブルの方を見て、自分たちが注文した品の準備状況を確認しようとした。正確にいうと、注文を受けるカウンターテーブルの奥、壁沿いにある作業台だ。プスパカフェではそこで豆を挽き、湯を沸かして客から受けた注文の通りの飲み物を用意しているのだ。ちょうどよくとでもいうのだろうか、店員がカップを三つと砂糖の入った入れ物を載せたトレーを持ちながらこちらの方へ向かってくるのが見えた。
店員はカーヴェたちの席までやって来ると、誰がどの品を注文したのかを尋ねた。契約書を読むのに夢中の画家の男とその様子を見守っているシェイクズバイルの代わりに、カーヴェは誰がなにを頼んだのかを店員に言った。『砂糖とミルクたっぷり』は画家の男、『ミルクだけ』はシェイクズバイル、『なにも入っていないブラック』は自分のだと、正確に伝える。
店員が品と伝票を置いて立ち去ると、カーヴェは自分の分のコーヒーが入ったカップに口をつけた。いつも通りの味だった。カーヴェは学生時代によくこのカフェを訪れていたが、その時代から全く変わっていない。そう思いながらカーヴェはコーヒーを少しだけ飲んだ後、カップをテーブルに置いた。画家の男は手にしたペンを使用して署名をしているところだった。
「書きました」
署名し終えると画家の男はそう言い、シェイクズバイルへ契約書とペンを渡した。シェイクズバイルはざっと契約書に目を通し不備がないか確認をする。数秒後、問題はなかったのか、契約書をたたみペンと一緒にていねいにしまった。
「ありがとうございます」シェイクズバイルは礼を言った。そして店員により先ほど運ばれてきたコーヒーの方を見た。「交渉は終わりましたが、注文したものがちょうど運ばれてきたみたいですし、いただきましょうか」
画家の男もつられるようにして自分の分のカップの方を見る。彼は砂糖入れから角砂糖を二つ取り出すとカップの中に入れて軽く三回ほどスプーンでかき混ぜた。スプーンをミルクと砂糖が入ったコーヒーから取り出し、なるべく音を立てないようにそっとソーサーに置く。そして、画家の男は中身をこぼさないようにカップをゆっくりと持ち上げた。
「もらいましょう――契約締結記念、みたいですね」
「たしかに」シェイクズバイルは言いながら、ミルク入りのコーヒーが入ったカップを持ちあげた。
「僕も二人の共通の友人として嬉しく思うよ」カーヴェはそう言い、二人のものより少ない量しか入っていないカップを持ちあげると軽くかざした。量が少ないのは既にいくらか飲んでしまったためだ。
彼らは周りの客の迷惑にはならないような、同じテーブルにいる人にしか聞こえないような声で「乾杯」と言いあった。