Peoneyboy

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芸術家たちの楽園

13

 二日後、カーヴェは釈放された。
 カーヴェの処分が決まって本人に通達されてからも、マハマトラたちは彼のことをすぐに自分たちの監視下から解放しなかった。ニィロウのときもそうだったが、教令院では事情聴取を受けた者をすぐに解放しないことがよくあったのだ。
 マハマトラたちは聴取を終えた後、カーヴェのことを必要最低限のものしか置いていない小部屋に連行すると、そこに入るよう促した。カーヴェは言われるがまま黙って部屋に入って行くと、ちょうど部屋の中央の辺りで扉の方を見る形で立った。そのときはもう、カーヴェはなにも考えることができなかった。
 カーヴェを連行してきたマハマトラによって部屋の扉が閉じられ、鍵をかけられる。外からの光は部屋の天井に唯一ある小さい明り取り用の窓からのものだけになり、時刻からいってまだ日は落ちていないにもかかわらず、部屋は薄暗くなった。カーヴェは明り取り用の窓を見上げた。窓は五歳くらいの子供ですら通れなさそうな大きさだ。もちろん、成人男性であるカーヴェが通り抜けることは不可能である。要するに、カーヴェがここから出るにはマハマトラ、ないしは教令院側の誰かが彼のことを釈放する気になるのを待つしかなさそうだった。カーヴェはベッドにまで歩いて行くと腰をおろし、釈放のときを待った。
 カーヴェがこれまでに経験した中でも、その二日間というのはあっという間に感じられた。正確には、気がついたら釈放されていたという方が正しいだろう。小部屋に入れられたその日のうちに出されたのではないかというくらいだ。理由は単純で、マハマトラの監視下に置かれている二日の間、カーヴェはなにかを考えることも感じることさえもできず、起きている間は食事の時間以外、ただ小部屋の白い壁をベッドの上に腰かけた状態で眺め続けていたからだった。カーヴェの心は時間さえも感じることができなくなるくらい、疲弊していた。

 アルハイゼンは教令院の出入口前の広場にて、釈放されたカーヴェが教令院の建物から出て来るのを待っていた。既に日は落ちきっていて、広場には人がほとんどいない。そんな中、広場に立ち続けているアルハイゼンの姿はやけに目立っている。
 教令院の入口の方に目をやっていたアルハイゼンは、カーヴェが教令院から出て来たことに気づいた。二日ぶりに見たアルハイゼンの同居人は、身なりが整っているとは言い難い状態だった。各地を旅する冒険者が悪天候の中、数日野宿をしたとしてもここまでひどい状態ではないだろう。髪は寝起きのときのようにあちこちに跳ねており、肩からかけているマントは、まるで慌てて羽織ったかのように、どこか正しい位置にないように感じる。いつも外出する際には妙論派の星として恥ずかしくない、完璧なものにしているカーヴェにしては珍しいことだ。このようなカーヴェの姿を見るのはアルハイゼンにとって初めてのことだった。
 カーヴェは教令院の入口から出た後しばらくの間、虚空を見つめて意識ここに在らずな様子を見せていた。だが、あるときアルハイゼンの存在に気づいたのか、こちらの方へ向かって歩き出した。カーヴェの歩みはひどくゆっくりとしていて、服装も相まって亡霊のように見える。アルハイゼンはカーヴェが立ち止まるのを待った。
 
「こんなのおかしい」カーヴェはある程度の距離までアルハイゼンに近づくと立ち止まり、小さな声でそう言った。
 アルハイゼンは腕を組むと、いつもの何を考えているかが他人から読み取れないような無表情で答えた。
「しかし、この決定は大賢者直々のものだから仕方ないだろう」
「そうかもしれないが」
 カーヴェはそう言った後、黙った。カーヴェの中には行き場のない怒りの感情があったが、それをどのように言語化すればよいのかすぐにわからなかった。カーヴェは口をつぐみ、怒りの内容を言葉に表そうと自身の頭の中で考えた。
 しばらくの間考えてわかったのは、アルハイゼンの『仕方ない』という反応に納得がいっていないのだということだった。つまり、アルハイゼンに対し、反論を言ってやらねばならないのだと、カーヴェは強く思った。
「そうかもしれないが、『仕方ない』で済ませていい問題ではないと思うよ。大賢者を始めとして、教令院がイエスと言えば全てがまかりとおってしまうのはおかしいだろう? 今回の件はそういうことなんだ。権力を持った者が明確な理由はないのに、ただ『嫌だから』という感情があるだけで駄目だと言い、禁止した。理不尽なことだ。これを『仕方ない』で済ませるというのは、理不尽であることを許容する、ということなんだ――僕はそうしたくない」
 アルハイゼンはカーヴェの怒りを黙って聞いていた。聞き終わった後、アルハイゼンはうなずいて肯定の意も、首を横に振って否定の意も示さなかった。ただ一言、「俺も極端な反応だとは思っている」とだけ言った。
 そう言った後、アルハイゼンは誰も自分たちの方に注目していないことを確認するように、慎重に辺りをうかがった。つられてカーヴェも辺りを見渡す。広場にはほとんど人はおらず、数名の学生と警備の三十人団がいるだけだった。皆、仕事や会話に夢中で、聞き耳をたてている者は誰もいなさそうだ。アルハイゼンも同じことを思ったのか、カーヴェの方へ一歩近づくと、声の大きさをカーヴェにしか聞こえないようなものにまで落として話し出した。
「カーヴェ、君はこの国を離れた方がいい」
 カーヴェはアルハイゼンが言ったことを理解できなかった。『離れた方がいい』『国を』――もちろん、単語ごとの意味はわかる。ただ、それらが繋がると意味がよく理解できないのだ。『君はこの国を離れた方がいい』カーヴェはその一文を自身の頭の中で何度も繰り返した。
 なにも反応を返なさないカーヴェの反応を肯定ととったのか、アルハイゼンは続けて言った。
「俺なら国を離れる手助けをしてやれる。君は一言、助けを求めるだけでいい」
「国を離れる」
「そうだ」アルハイゼンはうなずいた。
「つまり、今起こっている問題から目を背けろというのか? ズバイルシアターはどうなるんだ」
「そうともいえるが」アルハイゼンは深いため息をついた。「この期に及んで、そんな些末さまつなことを気にしている場合ではないだろう。君も本心ではわかっているはずだ。この国が今の体制である限り、君たちが置かれている状況は変わらないんだ。いや、むしろひどくなる一方だろうな。君たちが芸術を愛し、芸術活動に情熱をそそぎたいのならば、一旦ここを離れるべきなんだ」
「些末だって?」
 カーヴェは感情を露わにして怒鳴った。カーヴェが声を荒らげたのを聞いたのか、少し離れた場所にいた警備の三十人団が何事かと彼らの方を振り向く。もし喧嘩を始めようとしているならば止めようというような感じだ。カーヴェは視界のすみでそれを見て、ひとまず黙った。感情をなんとか抑えようと、目を閉じて十秒数える。カーヴェは再び目を開くと、目の前にいるアルハイゼンのことを見据えながら言った。
「ニィロウさんやシェイクズバイルさんたちズバイルシアターの皆が些末なことだと、僕には思えない。脚本修正のアドバイザーを引き受けた以上、最後まで見届ける責任が僕にはあるんだ。だから、僕だけ逃げることなどできない」
 警備の三十人団はカーヴェたちが喧嘩を始めようとしているわけではないと思ったのか、元々見ていた方に視線を戻した。その様子を見ながら、アルハイゼンは静かな声で言った。
「要するに、俺の助けは必要ないということだろうか」
「そうだ」カーヴェはうなずいた。「君の助けは必要ない。これが僕の返事だ――君の話はそれだけか?」
 アルハイゼンはカーヴェの問いかけに小さくうなずきを返した。イエス。本心ではそう思っていないかもしれないが、彼は了承の意を示した。
 アルハイゼンがうなずくのを見たカーヴェは黙って彼から一歩距離を置き、スメールシティの方へ続く道の方を向いた。そして歩き出す。
 だんだんとアルハイゼンとの距離は離れていき、警備の三十人団の前を通り過ぎた後はなにも見えなくなる。カーヴェがいつも羽織っているマントのさえも。
 アルハイゼンは深いため息をついた。

 教令院入口前の広場を去ったカーヴェはあてもなく、ただひたすらシティ内を歩き続けた。一歩、また一歩と足を踏み出すのに合わせて、だんだんと苛立ちが募ってくる。『状況はひどくなる一方』『些末なこと』『国を離れた方がいい』『この決定は仕方がない』――アルハイゼンが先ほど言った言葉がカーヴェの頭の中で反響する。カーヴェの歩くスピードは彼の感じる苛立いらだちの強さにあわせて速くなっていく。亡霊のようなゆっくりした速度から、一般的な成人男性が歩く速さへ、そしてシティを行き交う人々よりは早い速度へと変化していく。
 もちろん、カーヴェにもアルハイゼンの言いたいことはおおむね理解できていた。それでも、カーヴェの中のなにかがアルハイゼンの言うような行動をとることを拒んでいた。これは彼のわがままだった。カーヴェが感じている苛立ちはアルハイゼンへのものであり、教令院へのものでもあり、あるいはカーヴェ自身へ対するものでもあった。
 カーヴェはそうして歩き続け、気がつけばグランドバザールへ続く扉の前まで来ていた。スメールシティでよくみかける意匠の入った扉だ。カーヴェはいつもここへ来るたび、この扉にある意匠は美しいものだと感じていた。よくある、というのは良いと思う方向性や大小の違いはあるにしろ、多くの人が良いと思うデザインであるということだ。そういったものは例外なく美しいとカーヴェは常々思っていた。しかしきっと、教令院の者たちはそうやって――よくある意匠を美しいと感じることも駄目だと言うのだろう。それのなにがいけないのだろうか。各々が認識できていないだけで、心の隅では皆、良いと思っているのにだ。カーヴェにはその違いがわからなかった。
 カーヴェはいつものように扉を押し、グランドバザールへ入って行く。そこから少し歩けば、ズバイルシアターが公演を行う舞台が見えてくるはずだ。しかし、今日はいつものような光景を見ることはできなかった。シェイクズバイルとカーヴェが教令院の者に聴取のため連れて行かれる件があったので、ズバイルシアターの団員が公演に向けて練習をしているようなことはないだろうとはカーヴェも思っていたが、彼が見たのはその予想を上回る光景だった。
 カーヴェがズバイルシアターの練習場所についたとき、そこには十人くらいの人が集まっていた。どの人物もズバイルシアターのメンバーではない。カーヴェがズバイルシアターへ協力するようになってからまだそれほど時間は経っていないが、ズバイルシアターは小規模な劇団である。だから、カーヴェが顔を知らない団員はいないはずだ。それであるにも関わらず、カーヴェの記憶にあてはまる人物は一人もいなかった。
 驚くべきことに、集まっている者たちは舞台の解体作業をしているようだった。柱や壁を取り外せるものは外し、取り外せないものはハンマーのようなもので壊していく。取り外した舞台のパーツや、壊すことで解体した際に出た破片を集めたものは数名の運搬人が運び出していく。カーヴェはその様子を少し遠くから眺めながら、どうしてこんな状況にあるのだろうと考えた。
 グランドバザールにはいつも行商人たちが店を開き、商売をしている。店といっても敷物をひき、その周りに売り物を並べただけの簡易的なものだ。ズバイルシアターの舞台とは違って、商人たちの様子はいつも通りに見えた。客たちが行き交い、商人たちはモラを稼ぐため、店先にある商品を吟味している客たちに、自分たちの扱う商品がいかに素晴らしいものであるかを言葉巧みに勧めている。
 カーヴェはいくつもある店の中から客がちょうどいないものを探し出すと、そこへ向かって歩いて行った。店のあるじの男性は敷物の上に胡座をかき、暇そうに目の前の通りを眺めていた。
「すみません」カーヴェは店主に話しかけた。
 店主はカーヴェの方を見上げると、さっと素早く立ち上がった。
「どうぞご覧になってください。なにかお探しのものはございますか?」
 一瞬で商売人の顔になった店主は、客であると思われるカーヴェの対応をし始めた。しかし、カーヴェの目的は買い物ではない。彼は申し訳なさそうにしながら言った。
「申し訳ないんだが、買い物がしたいわけではないんだ。ちょっと聞きたいことがあって」
「聞きたいことですか? 私に答えられることならば」
 店主はカーヴェの言葉を聞くと、少々残念そうな様子を見せつつも引き続きていねいな調子で対応した。彼は目先の利益だけを考えるのではなく、長期的な視点を持っており、顧客を大事にする商人に違いないだろうとカーヴェは思った。
「そこの舞台のことなんだ」カーヴェは解体作業中の舞台を指さした。「僕は以前、作業員たちが解体中のあの舞台で催しものを観たことがあったのだが、あれは撤去されてしまうのだろうか? なにがあったのか事情を知っているか」
「し、知りません。私はなにも」
 先ほどカーヴェが『客じゃない』と言った際には、無下に扱ったりしなかったのにも関わらず、店主が急によそよそしい態度になる。
「お客さん、今日はリンゴを大量に仕入れた関係で、リンゴがお安くなっているのですよ。それに味も良いのです。ひとつ味見してみませんか?」
「ではお言葉に甘えて味見してもいいかな」
 店主が話題を変えてくる。店主にとって舞台の件はよほど話したくないことなのだろう。
 店主はカーヴェの返答にうなずくと、リンゴが積まれて入っている箱の中から小ぶりで少々色が悪く、傷が目立つものをひとつ取り出し、カーヴェへ手渡した。商品としての価値が低いものを味見用として無料で渡してくるあたり、彼はなかなかやり手の商人のようだ。カーヴェはリンゴを商人から受け取ると、ゆっくり掌の中で回転させて受け取ったリンゴのすべての面を見た後、比較的傷の少ない部分を選んでかぶりついた。甘さと酸味がちょうどいい。商人の言う通り、味の良いリンゴだ。
 商人はリンゴを食べるカーヴェの反応を営業用の笑みを浮かべながら伺っている。カーヴェはそんな表情の商人をしり目に、リンゴを咀嚼しながらも舞台のことをずっと考えていた。舞台が解体されている事情を商人は知っているのだろう。それでいて、知っているからこそ言いたくない、そんな感じだ。話題に出したくないことだというと、やはり教令院が絡んでいるのだろうか。
 だが、この話は目の前の商人からどうしても聞き出さなければならないことではない。彼のような、グランドバザールに店を構えているごく普通の商人さえ知っていることなのだ。他の人物も舞台解体の事情は知り得ている情報であるだろう。彼がどうしても話したくないのならば、彼以外の話してくれそうな人物を探し出して尋ねてみればいいだけだ。
「このリンゴ、三つもらえるかな」カーヴェは口に入っていたリンゴを飲み込み終えると、そう言った。
「毎度あり」商人は嬉しそうに言った。彼が顔に浮かべている笑みは営業用ではなく、どこか安堵あんどしたようなものであった。

 グランドバザールの他の商人にも尋ねてみたが、誰しもが一人目に話しかけた商人と同じような反応をした。気がつけば、カーヴェが腕に抱える、リンゴ三つだけが入っていた紙袋は話を聞くついでに買った果物や野菜がこれ以上入り切らないほどいっぱいまで詰まった状態になっていた。ここまで聞いても一向に詳細を知ることができないことに痺れを切らしたカーヴェは、仕方なくグランドバザールを出て情報収集をすることにした。
 カーヴェは再び、あてもなくシティ内を歩いた。
 彼の頭の中はズバイルシアターの舞台のことでいっぱいだった。カーヴェとシェイクズバイルが教令院の者に連行されてから一週間も経たないうちに舞台が解体されるなんて、いったいなにが起こったのだろう。もちろん、カーヴェは舞台を取り壊して新しくするなどという話を、シェイクズバイルから聞いていない。つまり、この件には明らかに教令院が絡んでいそうなのだ。舞台解体の件はあまりにもカーヴェたちが連行されたタイミングと一致している。疑うのはあたり前だろう。もしかしたら、カーヴェたちが脚本の件で聴取を受ける前から、教令院はズバイルシアターに目をつけていたのかもしれないとさえ思えてくる。
 ズバイルシアターの団員たちはどこに行ったのだろうか。事情を聞こうにも、カーヴェが知っているのはニィロウが住む家だけで他の団員の家は知らない。そのような状況におかれていて、シェイクズバイルが聴取から解放されて無事であるかどうかすら、今のカーヴェには確認するがなかった。こんなことになるならば、アルハイゼンにシェイクズバイルの安否を聞いておくべきだったな、と今更ながらカーヴェは後悔した。アルハイゼンは教令院で働いているので、カーヴェよりはそれらの事情を知っているだろう。
 そんなふうに歩き続け、トレジャーストリートに建ち並ぶとある店の前を通りがかったとき、カーヴェは見知った人影を見た気がして足を止めた。彼は歩みを止めるとすぐに、その人影があった方を振り向いた。
 そこにいたのは赤髪の少女だった。いつもと違って華やかな踊り子の衣装ではなく、シティでよく見かけるようなチュニックにふくらはぎの辺りまであるぴったりとしたボトムスという装いではあったが、間違いなくニィロウだ。服装のせいか、あるいは舞台用の華やかな化粧ではなく本人の顔立ちをさりげなく際立たせる程度の化粧であるためか、いつもと印象がかなり違って見える。
 ニィロウはどうやら近くにいる商人と共に日用品を売っているようであった。カーヴェは彼女たちの店の方へ近づいて行った。
「ニィロウさん」
 カーヴェが呼びかけると、赤髪の少女は彼の方を振り向いた。数秒間じっとカーヴェの顔を見つめる。そして、それがカーヴェであるとわかったのか、まるで生き別れの兄弟を見つけたときのように、とても驚いた様子で言った。
「カーヴェさん、無事だったんだね」
「ああ、僕にしては運良くね」とカーヴェは言った。
「みんなでカーヴェさんのことを心配していたの。なにかひどいことはされなかった?」
 カーヴェは少し考えて、言葉を選んで言った。「暴力だとか身体に傷が残るようなことはなにも」
「そうなのね」ニィロウはなにか言いたげな表情を浮かべつつも、うなずいた。
「えっと、聞きたいことがあるんだが」
 少々暗くなりつつある雰囲気を変えるためにも、カーヴェは話題を変えようと話し出した。
「なに?」ニィロウが不思議そうに尋ねる。
「ズバイルシアターの他の人たちはどうなったんだ?」カーヴェはニィロウの返事を聞くとすぐに話し出した。やっと事情を話してくれそうな人物に会えたのだ。「それに、ここへ来る前グランドバザールに行ったんだが、舞台が解体作業中だったんだ。僕のいない数日の間にいったいなにがあったんだ」
「ここだと人通りが多いから向こうで話そう。ちょっと待って」
 ニィロウは店にもう一人いる商人の方まで行くと、なにかを話し出した。少し店を離れる旨を話しているのだろう。すぐに話はついたようで、そう時間は経たずにニィロウはカーヴェの方に戻って来る。
「向こうの隅の方に行こう」とニィロウは指さしながら言った。

 ニィロウはカーヴェの前に立って歩き、彼女の店の近くの、建物でちょうど日影になっているところまで来ると立ち止まった。カーヴェもニィロウにあわせて立ち止まる。ニィロウはカーヴェの方を振り返ると、さっそくといったふうに話し出した。
「で、ズバイルシアターの皆の様子を知りたいと言ってたね。結論から言うと、皆無事だよ。ズバイルさんも含めてね」
「それは良かった。僕は教令院で聴取を受けたとき、なかなかにひどい目にあったからシェイクズバイルさんは大丈夫かと心配していたんだ。聴取を行っていたのはセノだったらしいから僕ほどひどい目にはあってはいないだろうと思いつつも、やっぱり心配だったからね」
「ひどい目?」ニィロウは言った。「さっき、ひどい目にはあってないって言っていなかった?」
「ああ、もちろんさっき言ったことは本当だ。身体に傷ができるような暴力は受けていない。暴力以外の、その他のひどい目にはあったけれども」カーヴェは少し言葉を濁しつつ言った。嘘は含まれていない。
「なるほどね。とりあえず、その話をするのは詳しく話したくなったらで大丈夫だよ」
 ニィロウはカーヴェが言い淀んだのを感じとったのか、それ以上は追及しなかった。カーヴェにとって、ありがたいことだった。自身の身に起こったことを、カーヴェは未だ消化しきれていなかったのだ。
「お気遣いありがとう。それで、ズバイルシアターはこれからどうするのだ? 舞台が解体されてしまったので、公演できる場所がなくなってしまったのだろう。まさか、勝手に舞台を解体するなんてね。ここまでひどいことはしないと思っていたが、それは僕の思い込みだったようだ」
「勝手?」
「ああ」
「舞台の解体は勝手には行われていないよ」ニィロウはカーヴェがしている勘違いを訂正した。「だって、ズバイルシアターの舞台の解体許可を出したのはズバイルさんだもの。教令院も勝手に他人の所有物を壊すわけにはいかないから、許可をズバイルさんに交渉の上、貰っている」
「待ってくれ」カーヴェはニィロウの話を途中で遮った。「シェイクズバイルさんが? いったいなぜだ。彼はズバイルシアターのマネージャーだろう。彼はズバイルシアターを守ろうとしていたのではなかったのか。舞台を解体してしまうなんて、ズバイルシアターの活動は今後どこでやるんだ? 僕はてっきり教令院によってズバイルシアターの許可なく解体されたんだとばかり思っていた。今回直した脚本の公演許可をまだ教令院から得られていないので内容を見直す必要はあるが、活動を続けるのではなかったのか」
 ニィロウは首を振った。「ううん、それについてなのだけど、ズバイルシアターは解散したの」
「解散?」カーヴェはニィロウが言ったことを復唱した。
「そう。ズバイルさんが教令院から帰ってきて最初に言ったことがそうなの。『ズバイルシアターは今日で解散だ』って」
「なんでだ? ズバイルさんはそれほどひどい目に合わされたのだろうか。教令院から脅されているということもありそうだ。でも、ニィロウさんや他の団員たちはそのことに納得していないだろう?」
 ニィロウはまたもや首を振った。「ううん、私は納得しているよ。他の皆も」
「どうしてだ。個人や他の団体で活動を続けるだとかそういうこと?」
「そういう人もいるけれども、私は違う」そう言ったニィロウは悲しそうな表情で続けた。「私は踊り子を辞めたの――つまり、を決めた。これは既に私の中で決まったことだよ。カーヴェさんがなにを言おうと揺るがない決定なの」
「いったいなぜだ。あなたは踊ることが好きだっただろう。あんなに人生の全てをかけるようにして踊り子をやっている人はそういない。そんなあなたが踊ることを辞めただなんて」
 ニィロウは悲痛な表情のカーヴェに対し、苦笑いした。そして言った。
「もう疲れてしまったの。自由に、自分の思うがまま踊れないことに」


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