Peoneyboy

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芸術家たちの楽園

14

 カーヴェは深い悲しみの中にいた。
 彼は酒場のカウンター席の一番奥につくと「デーツ酒を水割りで」とカウンター越しに店員へ注文をした。今日はとことん飲んでやるという気分でカーヴェはいた。可能であるならば、ここ数日に起きたことを全て忘れてしまいたかったが、残念なことに酒の力で得られる忘却はひとときのものであることを、これまでの経験からカーヴェはよく知っていた。それでも酒を飲まずにはいられなかった。
 まだそれほど混んでいない時間だったためか、店員はカーヴェから注文を受けるとすぐに注文の品の準備に取りかかった。グラスを戸棚から取り出し、デーツ酒をメジャーカップ一杯分グラスに注ぐ。鮮やかな手つきだ。そして、グラスの残りはピッチャーから注がれた水で埋められる。最後に軽くステアして完成だ。店員はナツメヤシの皮で作られたコースターをカーヴェの目の前に置くと、その上に作ったばかりのデーツ酒の水割りを載せた。
 カーヴェが頼んだデーツ酒の水割りはいつも通りの味だった。少しずつ飲み、グラスが空になると同じものを追加で注文する。そうやって一杯一杯を大事に飲みながら、ただ時間が経過するのをカーヴェは待った。今日は家に帰らないことを既に決めていたため、どれだけ時間が経過しようと問題なかった。本当はもっと早いペースで飲みたかったが、このペースでなければ会計はかなりの金額になってしまいそうであった。だから、カーヴェは仕方なく、かなりゆっくりとした速度で酒を飲んでいった。
 カーヴェの中にはもう、希望というものがなかった。
 正直にいって、どうすればよいのかすらわからない。このような気持ちになったのは生まれて初めてのことだ。死域により完成間近だったアルカサルザライパレスを失ったときも、アルカサルザライパレスを完成させるためにドリーから大金を借りると決めたときも、カーヴェはこのような気持ちになっていない。あのときはたしかに人生のどん底にいたが、しかし希望はあった。今はそれすらないのだ。
 カーヴェはデザインが好きで、芸術全般を愛していた。しかしその、彼が持っていたはずの芸術を愛する心というもの、つまりアイデンティティというべきものがだんだん崩れ落ちていく。なんとかそれを止められないかと、カーヴェは自身が知っている芸術家たちのことを気がつくと考え出していた。
 ニィロウ――彼女はだめだ。彼女はもう、踊ることをやめてしまった。あんなに踊りを愛していたのに、彼ニィロウは世間に漂う芸術活動への圧力からそれを諦めてしまった。
 シェイクズバイル。おそらく彼も、もうだめだ。ズバイルシアターを解散させたのはシェイクズバイルなのだ。あんなに素晴らしい劇団を、まとめ役であったマネージャー自身が存続させることをやめてしまった。シェイクズバイルも、カーヴェの今の迷いを払拭させる存在にはなり得ない。むしろ彼のことを考えたら、カーヴェもこの世間に漂う芸術軽視の風潮へ対抗することを諦めてしまいそうだ。
 作曲家の男――彼はスメールを離れて他の場所で作曲を続けるとのことだった。やはり、アルハイゼンの言う通りスメールを離れるべきなのだろうか、という思考がカーヴェの中で生まれてくる。カーヴェが自身のやりたいように建築デザイナーとして仕事をするならば、それが唯一の方法なのかもしれない。カーヴェの中にあった、アルハイゼンの言う通りにすることを拒んでいたなにかは消えつつあるようだった。
 そこまで考えてカーヴェにはあともう一人、芸術家と呼べるような友人がいることを思い出した。画家の男だ。素晴らしい絵を描く画家で、ニィロウが舞を披露する様子を絵に描いて、それがズバイルシアターの公演や公演の宣伝用ポスターに使われたこともある。
 カーヴェはグラスに残っていたデーツ酒の水割りを一気にあおった。口の中に強いアルコールの香りが広がる。ナツメヤシの皮のコースターの上へ空になったグラスを置きながら、カーヴェは自分の視界にある風景がどこかかすんでいることを感じとった。酔いがまわってきたのかもしれない、とカーヴェはぼんやりとした視界の中考えながら、目の前のカウンターテーブルに突っ伏した。そのまま目を閉じる。
 次にカーヴェが目を開けたとき、外はもうすっかり明るくなっていた。いつの間にか寝てしまっていたらしい。人もまばらになった店内を店員が片付ける中、カーヴェは大きく伸びをした。今日やることは既に決まっていた。

 カーヴェは朝食としてデーツナンとコーヒーを頼み、それらを腹に入れてから会計を済ませると、以前に訪れた際の記憶を頼りに画家の男の家へ向かった。
 スメールシティの郊外にある、ここら辺ではありふれたデザインの――つまり、ごく一般的であるという意味だ――とある借家の前にたどりつくと、カーヴェは自身の記憶の中にある画家の家と目の前にある家が一致しているものであるかどうかを確認した。屋根の形も窓の形も、外壁の色も屋根の色も記憶の中の家と同じだ。もちろん、ここまで歩いて来た道順も以前ここまで来たときと概ね一緒だった。曖昧な表現になってしまうのは出発した地点が違うからで、これに関しては仕方がない。どちらにせよ、これらの情報をまとめると、目の前にある家は間違いなく画家の男の家であるということが導き出される。
 カーヴェは玄関扉に近づくと軽く二回、扉を叩いた。辺りが住宅の集まる閑静なエリアであるためか、扉の向こうの家の中の生活音が微かに聞こえてくる。どうやら運のいいことに、家主は在宅中のようだった。
「はい」
 扉の向こうから外にいるカーヴェに対し、呼びかける声が聞こえてきた。
「カーヴェだ。先日はありがとう。今、ちょっといいかな」カーヴェは扉越しにそう言った。
 返事はすぐに返ってこなかった。十秒ほど経っても扉の向こうにいる者は黙ったままで、カーヴェは少しばかり不安な気持ちになった。しっかり確認したはずだが、ここは画家の男の家ではなかったのだろうか。
「――ああ、君か。長くなりそうな話かい?」
 たっぷり時間を消費して、やっと向こうから返事がくる。カーヴェの記憶は正しかったようで、彼は安堵あんどした。
「よくわからないんだ」
 カーヴェは正直に言った。たしかによくわからないのだ。画家の男の反応次第では長くなりそうだったし、場合によっては――例えば、画家の男がこれ以上話を続けたくない素振りを早い段階で見せてきたら、早々に切り上げるかもしれない。
 今度の返事もすぐには返ってこなかった。画家の男は扉越しでなにか考え込んでいるようだ。やはりたっぷり時間を消費してから、やっとゆっくりと玄関扉が開かれた。
「どうぞ入って」画家の男はカーヴェのことを自分の家に招き入れた。
 
 画家の男の家の中は以前と様子が全く異なっていた。
 例をあげるならば、ものを運ぶときに使われるような木箱が、部屋のすみにいくつも積み上げられていることが変化のうちのひとつだ。細かい道具や日用品は全て片付けられていて、木箱に入り切らない大きさの家具類だけが運び出されることを待っているかのように、床の上にまとめ置かれている。以前訪れたときにあった画家の男の作品は、もう運び出された後なのか、はたまた木箱にしまわれた後なのか、目につくところにはひとつも置かれていない。もちろん、例のニィロウが舞う様子を描いたものも見あたらなかった。あの大きさの絵画が入る木箱はカーヴェの見た限りこの部屋には存在しなかったので、どこかに運び出したのかもしれなかった。
 まるで、引っ越し前の荷造りをしているような光景だ。カーヴェは先日、作曲家の男の家に行ったときのことを思い出す。カーヴェが彼の家を訪ねたとき、彼もちょうど引っ越しのための荷造り中で、スメールを離れるのだと言っていた。そして、もう二度とここに戻って来ることはないとも口にしていたのだ。
「引っ越すんだ」
 家中を見渡すカーヴェに対し、画家の男はそう言った。カーヴェが感じていた、彼も引っ越そうとしているのではないかという予感は見事的中していたようだ。
「どこへ?」とカーヴェは尋ねた。
「スメールの国外さ」
「なぜ?」カーヴェはほとんど反射的に、理由を尋ねる言葉を口にしていた。
「質問を質問で返すみたいになってしまうが、僕が引っ越すことになにか理由が必要なのかい?」
 画家の男の返事に、カーヴェはなにも言わずにうなずく。イエス。引っ越すということは、たとえどんなに些細なことでもなんらかの理由はあるだろう。
 それを聞いた画家の男は小さな声で、しかしはっきりと「君たちのせいだ」と言った。なんとか、怒りを抑えようとしているかのようだった。
「僕たちの?」カーヴェは驚いた。いったいどういう意味なのかがわからなかった。
「そうだよ。君が手伝っていたあの劇団の公演に僕の描いた絵画が使われていただろう。そのせいで教令院に目をつけられ、色々調査されたんだ。教令院からすると良くない、反社会的な活動をしているんじゃないかとね。僕にとってはただ絵を描いているだけなんだけど」
 画家の男はそこで自身の気持ちを落ち着かせるかのように一呼吸入れた。そして続けて言った。
「そしてあれは、本当に突然のことだったんだ。ある日、マハマトラたちがやってきて――それも何人もだ、僕の家を物色してひとしきり調べあげると、彼らは僕がいわゆる、良くない思想を持った反社会的な人間だと結論づけた。そして、違反に値するものだとして僕が描いた作品を全て回収していったんだ。そう、全て。ひとつ残らず」
 画家の男はそうやって言い終えると、近くにあった椅子の座面に向かって勢いよく腰を下ろした。そして手を膝の上で組み、身を全て任せるかのようにして椅子に寄りかかった。
「あいつのように、この国を早々に見限るべきだったんだ」
 独り言のように画家の男は言った。
 カーヴェは画家の男になにも声をかけることができなかった。しばらくの間、画家の男は椅子に座ったまま床の一点を見つめていたが、あるとき顔をあげるとカーヴェの方を見た。
「君と会うのはもうこれで最後だ」
 カーヴェはうなずいた。彼は画家の男の言うことになにも反論せず、黙って従うことしかできなかった。

 画家の男の家を逃げるかのように、別れの挨拶も告げぬまま去ったカーヴェは、そのままの足で錬金薬を取り扱う行商人の店へ向かった。
 モンドで仕入れた錬金薬を扱うその店は、少々値段は張るが効果は充分に、必要以上に期待できるものだ。それに、教令院に所属する者が錬金術により作成したものを仕入れたわけではないので、誰がなにをどれだけ買ったのかを教令院側にすぐ知られることがないのも、カーヴェにとって都合が良かった。
 カーヴェはその店で雷元素力が込められたものと炎元素力が込められたもの、二種類のオイルが入った瓶をそのとき店にあった在庫分を全て買い占めると、スメールシティを離れた。カーヴェの所持金はオイルが入った瓶を大量に買ったことで雀の涙ほどになってしまったが、これからのことを考えたらそんなのは些細なことでしかなかった。
 カーヴェはアルハイゼンの言う通り、この国をつまりスメールを離れることを決めていた。カーヴェの知り合いたちの様子を見て、彼はそう固く決意したのだった。しかし、カーヴェにはやり残したことがある。彼がこの国で得た輝かしい功績と決別をすることだ。
 この国を出れば、カーヴェは新たに一から建築家デザイナーとして出発せねばならない。彼がこれまでに引き受けてきた仕事はスメール国内のものだけで、工事現場が遠くのものであったとしてもせいぜいスメール西の方に広がる砂漠地域までだった。そんなカーヴェが国外で再出発するならば、最初のうちは苦労するに違いない。彼がこれまでに引き受けてきた仕事でつちかった経験をもってしてもだ。この業界は人脈が最も大事であることをカーヴェはよく知っていた。
 カーヴェがこの国で関わった事業は多々あったが、代表作といえるのはやはりアルカサルザライパレスの建設だろう。カーヴェが心の底から自由に、自身の思うがままにデザインできたのはこの建物だけだ。たしかに彼が借金を背負うことになった理由でもあるのだが、それでもアルカサルザライパレスの建設というのはカーヴェにとって思い入れのある仕事であった。
 そういうこともあって、カーヴェがこれまでこの国で積み上げてきた功績と決別するために選んだのは、やはりアルカサルザライパレスだった。もちろん、この邸宅が既に所有者の元を離れており、誰も住んでいないというのもある。正確にいうと、所有者は手放さざるを得ない事情があって――よりはっきりいうと教令院により没収されてしまったからなのであるが、どちらにせよ、この素晴らしい豪邸の所有権は現在教令院へ渡っており居住者がいなかった。
 カーヴェからすると、人が住むことのない家など、どんなに素晴らしいデザインであろうとも家としての価値は一切ない。家というのは住んだりして管理をしなければ朽ちていく一方だし、誰にも見向きもされず朽ち果ててしまった家などただのガラクタだ。だから、このままいけば数年後には巨大なガラクタになるであろうアルカサルザライパレスに対し、カーヴェは家としての価値をもう見出せなくなっていた。
 アルカサルザライパレスの母屋や庭に建つガゼボを含んだ敷地内の様子全てが見渡せる小高い丘の上に、カーヴェは辿りつく。彼が建てた素晴らしい建造物らを、ゆっくりと隅から隅まで見渡す。ちょうど植物の成長が著しい時期であるためか、人が離れて数か月ほどしか経っていないのにも関わらず、庭はかつての素晴らしさとは打って変わってひどい状態にあった。あちらこちら好き放題に草や木が伸び、美しさとはかけ離れている。ここのかつての所有者のドリーはカーヴェにこの家の建設依頼を出した際、庭師を雇うと言っていた。そういったこともあり、カーヴェは一般的な住居の庭とは違って手入れを頻繁にすることありきでこの庭をデザインをしたのだが、そういうことも手伝ってか想像以上の荒れ具合であった。
 カーヴェはため息をついた。こんなものは彼の理想とはかけ離れている。
 丘の斜面をカーヴェはゆっくり慎重に降りていくと、アルカサルザライパレスの敷地内部へ入っていった。廃墟となったアルカサルザライパレスには人の気配が一切ない。このことはカーヴェにとって都合が良かった。これからやろうとしていることが、すんなりと必要以上に苦労せずやり遂げられそうであるからだ。
 アルカサルザライパレスの正面玄関の前まで来ると、カーヴェは建物を見あげた。建物自体の傷みはまだそれほど進行しておらず、敷地内全体を見たときとは違って廃墟の様相を呈していない。無人になる前の美しさを保ったままだ。
 カーヴェはしばらくの間建物を見あげていたが、少しだけ決心が揺らぐのを感じた。その気持ちを振り払おうと、あわてて首を横に振る。このまま眺めていても仕方がない。気が変わってしまわぬうちに行動をしてしまおうと、カーヴェは準備をし出した。
 カーヴェは持っていた工具箱から手を離した。
 工具箱のメラックは便利なことに自立移動機能がついているため、重力に従って地面に落ちたりはせずその場に留まる。メラックは不思議そうな様子で(カーヴェにそう見えるだけかもしれないが)、主人の顔の高さまで浮かびあがった。
「メラック、先ほど店で買ったものを出してくれるかい?」
 カーヴェがそう言うと、メラックは軽快な電子音で返事をした。メラックは瓶を数本、自身の中から取り出すと、カーヴェの手が届きやすい位置へ浮かせた。
「ありがとう」カーヴェは空中にある瓶のうち、二本だけをとりあえず手に取った。「メラック、下がっていてくれ」
 命令に従いメラックが後方に下がったことを確認すると、カーヴェは玄関ドアから少々離れた、が届かないであろう位置から手に持っていた瓶を扉に向かって投げつけた。瓶の中身は烈火のオイルと驚雷のオイルだ。これらは神の目を持たない者や、神の目を持つ者であっても、自身が扱える元素力と違う元素力を扱いたいときに重宝されるものであった。主に、魔物たちを攻撃したいときや、神の目で扱える元素と異なる元素のオイルを組み合わせて元素反応を起こしたいときに使われている。
 カーヴェが投げつけた瓶はちょうど玄関扉の中央付近に命中した。衝撃で容器が割れ、中に入っていたオイルが辺りに飛び散る。割れた瓶に入っていたオイルは、炎と雷という二つの違った元素力を有するものだ。異なる元素のオイルを組み合わせて元素反応を起こす――主に使われる用途のうち、後者の方だ。そして、炎元素と雷元素が反応した場合、過負荷反応が発生する。
 その瞬間、炎と雷の元素反応による負荷が極限にまで高まったためか、玄関扉の前で爆発が起こった。地面に響いた衝撃からか、数か月もの間掃除されていなかったことで玄関前の床に堆積していた砂が空中に舞い上がる。爆発といってもたかが手のひらほどの大きさの瓶に入ったオイルが引き起こしたものだ。衝撃は直接命中した箇所以外には影響が出ないほどの大きさだった。
 砂埃が収まるとカーヴェは玄関扉の方へ近づいた。予想通り、扉は爆発の衝撃で隙間が空いている。カーヴェは隙間から腕を入れると手探りで扉の鍵を探った。アルカサルザライパレスを設計する際に玄関扉を選んだのはカーヴェで、どのような構造の扉であるかを把握した上で選んでいる。だからもちろん、この扉のどこに鍵が配置されているかは彼の頭の中に入っていた。
 鍵の開く音がする。
 カーヴェは爆発の衝撃で少々歪みが発生している扉を、自身の体重をかけるようにして押し込んだ。ゆっくりと扉は開き、成人男性が通れるくらいの隙間が生まれる。
「メラック、僕の後についてこい」
 カーヴェはメラックに届くよう、少々大きめの声で呼びかけた。メラックはすぐに命令通り、カーヴェの方に飛んでくる。メラックは主人の真後ろまで来ると、ピッポと電子音を鳴らした。
 彼らの仕事はここからだ。カーヴェはこの邸宅のあちこちを壊して回る予定だった。邸宅に施されている美しい意匠の数々を、カーヴェが思う自身の最高傑作を、完膚かんぷなきまでに壊すのだ。
 これはカーヴェがスメールで得た功績との決別のために、彼自身が決めたことであった。
 カーヴェはメラックから烈火のオイルが入った瓶と驚雷のオイルが入った瓶を一本ずつ受け取ると次のターゲットに向かって歩き出した。カーヴェの頭の中にこの邸宅の設計図は全て記憶されている。カーヴェはそれを思い起こし、歩きながら壊す順番を考えていた。
 一日がかりの大作業になりそうであった。

 カーヴェがシティに戻ってきたのは、アルカサルザライパレスへ辿りついてから一日経った後だった。
 彼ら――カーヴェとメラックがシティについたときのありさまは客観的にみてひどいものであった。全身砂埃まみれで、うっかり瓦礫にこすったことでできた擦り傷が身体(メラックの場合、しっくりくる単語がないため便宜的な意味合いでのからだbodyになってしまうが)のあちこちにできている。そのような状態であったのにも関わらず、機械であるメラックの機能面に影響はなさそうだった。機械というのは、特になにもしなければ砂埃や水濡れに弱いものであるが、カーヴェはメラックを砂漠の建築現場に持ち出すことを見越して、ボディに防塵加工を施しておいたのだ。カーヴェは過去の自分の選択に感謝した。
 彼らは真っ直ぐ自宅に向かった。既に日が落ち始めている時間で、数日ぶりに帰ってきた家の中は薄暗い。部屋に設置してある照明のスイッチが入っていないからだ。家に人が不在なのだろう。カーヴェは壁に設置してあるスイッチを押した。
 目の前に人影が浮かびあがる。
「びっくりした」
 カーヴェは思わず声を出した。部屋にいたのはルームメイトのアルハイゼンだった。彼はなぜか照明をつけないままリビングのカウチソファに腰掛けていたようだ。アルハイゼンはカーヴェの声に反応するかのように、カーヴェの方に顔を向けた。
「おかえり」とアルハイゼンは言った。
 カーヴェたちの薄汚れた様子は彼の目にはっきり映っているはずだが、アルハイゼンはそのことには触れず、いつも通りの口調でそう言った。
「ただいま」
 カーヴェもアルハイゼンの方を見ながら、いつも通りに返事をした。二人の目と目があう。
 しばらくの間、彼らの間に沈黙がおりた。とても奇妙な時間だ。なぜか照明をつけず部屋にいたアルハイゼンと、そこへやってきて照明をつけたカーヴェ。そしてカーヴェには、一生のうちで最後だろうという頼みがアルハイゼンにあった。カーヴェはそのままアルハイゼンのことを見据えながら言った。
「君に頼みがあるんだ。僕を助けてほしい――この国を出るために」


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