カーヴェはシャワーを浴びた後、髪の毛を乾かすのもほどほどにして自室に向かった。
バスルームに置いてあった洗濯済みのタオルを、アルハイゼンが生活するのに困らない程度の量だけ残してあとは全て持ち出していく。タオルは旅に欠かせないものであるからだ。なにかを拭いたり、頭から被って日よけに使ったり、おまけに怪我をしたときの応急処置にも使える。もちろん、宿に備え付けのタオルが用意されているのならば、わざわざ持っていく必要はない。だが、これからの旅は事前に宿など予約していなかった。ただの旅行とは違うのだ。
アルハイゼンはカーヴェの、国外逃亡するのを手伝ってほしいという頼みをすんなりと引き受けた。アルハイゼンがカーヴェに対しなにも言わず、言うがまま従うのは珍しいことだ。もしかしたら、アルハイゼンはカーヴェがこうすることを既に予測していたのかもしれなかった。だから、驚かなかったのだろう。カーヴェに対しどのような返答をするのかまで、アルハイゼンの中では既にシミュレーション済みだった可能性もある。
出発まで時間の猶予はそれほどない。カーヴェは自室に入るとざっと部屋全体を見渡して、購入し直すのに苦労しそうなものや、すぐに入り用になりそうなものだけに目星をつけた。次に、クローゼットにしまいこんであった大きめのバックパックを引っ張り出すと、目星をつけた品々を手際よく詰め込んでいった。
部屋の
「ああ、メラック。君の掃除がまだだったね」
カーヴェはそう言うと、バスルームから持ってきていたタオルが置いてある山から一番上にあったものを手に取り、おいでと声をかけた。メラックは主人の命令に従ってカーヴェの膝の上に飛んでくる。カーヴェは左手でメラックを押さえながら右手に持ったタオルで、細かい溝に入り込んでしまっている砂にも気をつけながらていねいに拭きあげていった。仕上げに金属部分を、金属メンテナンス用のポリッシュを使って柔らかい布で磨きあげて完成だ。カーヴェは手入れし終えた後のメラックを、全体がわかる位置から眺めると、出来栄えに満足してうなずいた。
メラックを磨くために使用したクロスとポリッシュは、バックパックのポケットの中に入れる。砂漠では金属メンテナンス用のポリッシュは手に入りにくいものであるし、砂漠越えをする可能性がある現状(今のところ、どのルートでスメールを出るのかはまだ決まっていなかった。もしかしたら、協力者のアルハイゼンには既になにか考えがある可能性もあるが)、これは持っていくべきものだ。それほどかさばるものでもないし、必要になったとき入手するためかかる労力と比較すると、はるかにクロスとポリッシュを荷物として運ぶ方が費用対効果は高いだろう。
カーヴェは再度バックパックの中身を確認して、入れ忘れたものがないことを確認すると蓋を閉めて背負った。準備は完了だ。
「メラック、行こうか」
カーヴェの呼びかけに対し、工具箱は電子音で返事をした。
メラックを引き連れてカーヴェがリビングに行くと、カウチソファに座ってアルハイゼンは本を読んでいた。これから、ルームメイトの国外逃亡の手助けをしようとしているのにも関わらず、驚くぐらい、いつも通りの調子だ。
「君には緊張感というものはないのか?」カーヴェは呆れた調子で言った。
「緊張感?」アルハイゼンは読んでいたページに栞を挟んでから本を閉じると、カーヴェの方に顔を向けた。「緊張したからといって今からやろうとしていることの成功率は上がらない。むしろ、いつもはしないようなミスをする可能性がある。だったらいつも通りを心がけた方が得策であろう」
「君ってやつは」
カーヴェは言った。カーヴェがよくアルハイゼンに対して言う言葉だ。いつも通りに、カーヴェはアルハイゼンに向かってそう言ったのだ。
「僕の準備は完了だ。さて、君にはこれから国外逃亡しようとしている僕を無事に逃がす手立てがあるんだろう」
挑発的にカーヴェは言った。アルハイゼンのいつもと変わらない態度を見ていると、これからやろうとしていることは必ず成功するであろうという気がしてくる。
アルハイゼンはうなずいた。
「もちろんだ。俺たちには協力者がいる。まず、君をその協力者の元に連れていく」
「協力者?」
カーヴェはアルハイゼンに向かって尋ねた。しかし、アルハイゼンはなにも返事をせず、家の出入口に向かって歩き出していく。自分の目で確かめろということだろうか。もしくは、ただ単に説明の手間を省きたいだけかもしれない。
カーヴェは仕方なくアルハイゼンの後を黙ってついていった。その協力者というのが誰だかはわからないが、今から連れていくというのだ。すぐに正体はわかるであろう。
「お待ちしていましたわ」
スメールが誇る大商人――ドリー・サングマハベイはカーヴェとアルハイゼンを迎え入れるとそう言った。アルハイゼンがカーヴェを連れて向かったのはカーヴェも訪れたことある、現在のサングマハベイ邸であった。
「アルハイゼン、協力者って彼女のことかい」カーヴェは隣に立つアルハイゼンへ向かって言った。
「そうだ。彼女は君が助けを求めるならば協力すると約束してくれた。カーヴェ、彼女に助けを求めるんだ」とアルハイゼンはうなずきながら言った。
「なんだって」カーヴェは嫌そうな様子を隠さずに言った。「アルハイゼン、ここまで連れてきてくれたところ悪いんだが、それはお断りだ。僕は彼女に借りを作りたくない。彼女に弱みを見せてはいけないというのは、この僕が一番よくわかっている。ここで助けを求めてみろ。後でなにを要求されるかわかったものではない」
「本人がいる前でずいぶん、はっきり言いますのね」ドリーは腕を組みながら言った。「でも、
たしかにドリーの言うとおりだった。船のチケットを購入するには身分を示す必要があるし、乗船する際にも乗客たちはしっかり確認される。船の運航を管理する者も後々犯罪に加担したとされたくはないため、密輸や犯罪者の国外逃亡に関与しないよう、乗船記録を取っているのだ。さらには、学者の身分にあるものは前科がなくとも念入りに調査される。これは以前、教令院に所属する学者が貴重な研究サンプルや関係者にしか公開されていなかった研究資料を許可なく国外に持ち出したことがあったからだ。
正確にいうと、カーヴェは学者の身分にあるわけではないが、教令院から補助金をもらう立場にあったりもして少々教令院の内部情報について知りすぎている。それに付け加えて、現在では『教令院卒業者名簿からの名前の抹消と、建築士資格の取り消し』の処分を下された犯罪者にも含まれているのだ。要するに、乗船する際、念入りに調査される学者相当の身分であり、カーヴェであると知られた時点でスメールに送還されるであろう犯罪者の身分でもあるということだ。チケットを購入することでさえまずできないだろうが、特殊な方法でチケットを入手し乗船できたとして、途中でバレて目的地に降り立つことすら叶わず送還されるのが関の山であろう。
「たしかにそうかもしれないが」
カーヴェはドリーのもっともな言い分になにも言い返せず、肯定する言葉を口にした。
「君の心配については問題ない。彼女には、君を助けるという行為そのものに得があるのだから」ここで助け舟を出したのはアルハイゼンだ。「そうだろう、ドリー。まさか、彼を助けることで既に利益があるというのに、さらになにかを要求するわけではあるまいな」
じっとドリーのことを見つめるアルハイゼンに対し、ドリーはよく聞き取れない単語をぶつぶつと口にした。図星だったらしい。
「利益?」ドリーのことはとりあえず放っておき、カーヴェは疑問に思ったことを尋ねた。「僕を助けることで彼女には儲けがあるのか? 彼女が一モラも得にならないことをしないというのはよく知っているから、儲けがあるというのなら安心できるんだが」
「君は建築士資格をはく奪されただろう。つまり、スメールで君が今までのように建築デザイナーの仕事を続けていくのは現状、難しい」
「なるほど。それで?」
「君が今までのように稼げなくなって困るのは君自身もそうだが、ドリーも困るであろう。借金の返済が滞ってしまうだろうからね」
「わかりましたわ、わかりましたわ。もうそこまでで大丈夫ですの」カーヴェがなにか言う前にドリーは慌てたようにそう言った。「彼のおっしゃるとおり、私にもあなたの逃亡を無事に成功させたら得がありますの。今回は特別にその
あの口のうまい大商人サングマハベイが、簡単に口で言い負かされている光景をカーヴェは初めて見た。カーヴェは過去に
「わかったよ。ドリー、助けてほしい」カーヴェはしぶしぶと言った様子で、しかしはっきりとそう言った。
「その言葉をお待ちしておりましたわ」ドリーは笑みを浮かべた。「では早速、今回の国外逃亡計画について話してもよいかしら?」
アルハイゼンとカーヴェはうなずいた。それを見たドリーは続ける。
「陸路で他国へ行くとならば、層岩巨淵を通り
ドリーはそこまで言うと一旦区切り、カーヴェとアルハイゼンに向かって問いかけた。
「なぜ、砂漠越えか。そうお思いになりましたでしょう」
二人は揃ってうなずいた。
「ああ、たしかに。なぜだ、ドリー」とカーヴェは言った。
「私の商売は砂漠の顧客の方が、璃月方面に住む顧客よりも圧倒的に多いんですの。ですので、砂漠の方が信頼のおける協力者を探しやすいというのが理由ですわね。これまでにやった商売上での取引から、誰が信用できて誰が信用できないのかというのはよくわかっておりますの。今回同行を依頼しているキャラバンは、私が商売をする上で関わりのある者たちの中でも、かなり信頼がおける方々なんですのよ」ドリーは自信ありげに言った。
「その言葉は信頼していいんだな」アルハイゼンは確かめるように言った。「『信頼がおける』という君の言葉が信頼できるのかを俺たちは気にしている」
「たしかに、裏があったりとかはしないよな」
カーヴェもアルハイゼンの言うことはもっともだ、というように便乗して言った。今回、ドリーはカーヴェたちの協力者ではあるが、過去にあった数々の出来事から、念入りに確認をしておくのに越したことはないとカーヴェは思っていた。彼女の言葉に騙されて、ちょっとした不利益を被るのはカーヴェにとってよくあることだったのだ。
「裏なんかありませんわ。言葉通り、『信頼のおける』キャラバンですの」
ドリーははっきりとそう言い切った。どうやら、本当に言葉通りのことらしい。
「確認したいことは今のところそれだけかしら?」
カーヴェとアルハイゼンはドリーの質問にうなずいて答えた。イエス。とりあえず、懸念点は今のところそのくらいだ。
「では、砂漠越えのルートの詳細を話しますわ。私たちはそのキャラバンに同行し、まずキャラバン宿駅の検問を受けます。次に、アアル村を避けて、アアル村より先に位置する集落を目指していく予定ですの。その集落は小規模で、アアル村やその他集落ともほとんど関わりをもっていないのですわ。ごくわずかに限られた集落や私のような選ばれし商人とだけ取引を行っていますの。ですから、今回の旅の補給地点としてはぴったりですわ。旅の最終目標地点はとりあえずフォンテーヌとしていますが、そこまでは距離がかなりありますのでね。どこかで補給を挟まなければ、少々辛い旅路になりかねませんし」
「ひとつ目の補給地点までのルートはわかった。キャラバン宿駅で検問があると言っていたが、問題ないのか? 検問を受けたときに、検問官が僕のことを怪しんだりしないだろうか」カーヴェは不安そうな様子で尋ねた。
「それは問題ありませんわ」不安そうなカーヴェに、ドリーは言った。「あなたが同行するキャラバンは教令院から正規の許可を得ていて、それを証明する許可証を所持していますの。ですので、荷物やキャラバンのメンバーをつぶさに検問所で確認したりはしないと予想しておりますわ。変装して、さらには偽名と偽の身分証を用意してありますので、それで問題なくキャラバンのメンバーにまぎれられると思っておりますの。キャラバン隊の一員のふりをして検問を通過する、という作戦ですわ」
「変装、というのがどのくらいうまくいくかわからないが、やってみよう」カーヴェは顎に手をあて、思案するような体勢をとりながら言った。
「隣室に変装のための道具を用意しましたわ。それらを使ってくださいまし」
ドリーは部屋の東側にある扉を指さした。
「ちなみに一応聞くが、キャラバン宿駅で検問を受けないという選択肢はないのか?」カーヴェは尋ねた。
「それは勧めないな」アルハイゼンはカーヴェの質問に、ドリーの代わりに答えた。「砂漠地域と雨林地域を行き来する隊商はキャラバン宿駅の検問を必ず受けるきまりになっているのだ。それもあってか、キャラバン宿駅の周辺には教令院に雇われた傭兵たちが大勢、検問を受けず不法に通過する者がいないかを見張っている。もし、検問受けないで通過した場合、その見張りに見つかる可能性が高い」
「そうなんですの」ドリーはアルハイゼンの言葉にうなずいた。「それに、キャラバンにそこまでリスクを背負わせられませんからね。万が一、検問所であなたが見つかったとしても、うまく言い訳をすればキャラバンは不利益を被らずに済みます。例えば、素性を知らなかったんだ、等と言ったりですわね。キャラバンがもつことになるリスクがあんまりにも高すぎる場合、彼らはあなたを同行者とすることを了承してくれなくなってしまいますし、これは仕方のないことですわ」
「たしかにそうだな」カーヴェはうなずいた。「それで、その集落で補給した後はどうするんだ?」
「そこからはキャラバンとは別れて、私たちだけの旅になりますわ。徒歩で砂漠を越え、フォンテーヌまで行きます。砂漠にあるオアシスの場所は既に把握してありますから、オアシスを経由するようにして行けば問題なくたどりつけると思っておりますの。迷わなければの話ではありますけれど」
「待ってくれ」カーヴェは驚いた様子でドリーが話すのを止めた。「あなたもフォンテーヌに行くのかい?」
ドリーはうなずいて、肯定の意を示した。「あら、言っておりませんでしたっけ。私もスメールを出ようと思っておりますの。商売のチャンスは当分この国にはなさそうですから、しばらくの間、他国で商売をしようかと思っておりまして」
つまり、キャラバンと別れた後も一人旅にはならないということだった。旅は道連れというくらいだし同行者がいるのは心強いが、旅の仲間がドリーというのは少しばかり不安が付きまとう。正直にいって、カーヴェはドリーのことをたまに関わるくらいがちょうど良い人物だと思っていた。彼女はたしかに商人としては素晴らしいが、一癖も二癖もあって少々やりにくいのだ。
カーヴェは諦めたように天井を仰いだ。なかなか過酷な旅になりそうだった。
カーヴェは変装道具が用意されているという隣室に入ると、テーブルの上に並べられている、ドリーが用意したものたちをひとつひとつ確認していった。
まずは服。リネン生地で作られた、砂漠で暮らす者がよく着ている砂のような色のものだ。この色は風で舞った砂を浴びても汚れが目立たない。そのため、砂漠に住む者たちはこのような色合いの衣服を好んでいるのだ。カーヴェは畳んであったそれらを広げると、着ていた服を脱ぎ手早く着替えた。用意されていた服はカーヴェのためにあつらえたかのようにサイズがピッタリであった。
次は緑色の粉状のものが入った容器と透明な液体が入った瓶。カーヴェはそれらの用途が見ただけではわからず、持ち上げて容器についているラベルを読み上げた。
「用途『
カーヴェは自身の髪の毛を摘んで眺めた。一般的に、もともと持っている髪の色素の薄い方が簡単に染まり易い。黒や濃い茶色だったらまず髪の毛の色素を抜く脱色作業が必要になるが、カーヴェのような明るいブロンドならば脱色せずとも綺麗に染まるであろう。
容器のラベルをよく読むと、カーヴェは説明に従って髪染めの準備をし始めた。用意してあったボウルに染め粉を入れ、瓶に入った液体を少しずつ加えて混ぜて髪の毛へのせやすい硬さにする。それが終わると、実際に髪を染める作業に入っていった。髪の生え際にクリームを塗り、肩からこれまた用意されていたケープを被り、手袋をはめる。髪以外の余計なところが染まらないようにするためだ。
カーヴェは部屋の壁際の、鏡がある方へ移動した。そこには、染料を落とす際に用いるであろう水の入った桶や、座って作業できるように置かれている、座ると顔がちょうどよく鏡の高さにくるような椅子も用意されている。カーヴェは椅子に腰掛け、目線の高さにきた鏡を見ながら練った染め粉を自身の髪へていねいに塗っていった。
染髪には時間がかかる。染め粉を塗り終えた後、カーヴェはラベルに記載通りの時間をおくため、メラックに頼んで時間を計測してもらうことにした。これなら時間を置きすぎることもないし、記載されていたとおりの時間が経たないうちに洗い落としてしまうこともないと思ったのだ。
「もし寝てしまっていても、時間が経ったら起こしてくれ」
カーヴェはタイマをセットし終えると、メラックに対してそう念押しした。メラックは機械だから臨機応変に考えて行動することができない。命令は詳細に与える必要がある。
カーヴェは椅子に腰掛けた状態で窓から差し込む陽光を浴び、大きなあくびをした。日は高くなってきており、この感じだとお昼どきくらいの時間であろうか。ここ数日、色々なことが起こったせいで疲れがたまっていたのか、いつの間にかカーヴェは目をつむってうたた寝をしていた。
カーヴェが次に目を開いたのは、なにかがぶつかってくるような衝撃を身体が感じとったからであった。カーヴェは何事かと慌てて目を開け、ぶつかってくるものの方を向いた。メラックだ。
メラックは主人を起こそうと、電子音を継続して何度も鳴らしている。カーヴェは寝起きの半分ほどしか働かない頭で、メラックがそのような行動をしている理由について考えた。メラックはプログラムされた人工物であるため、理由もなく主人に向かってたいあたりをするようなことはしない。カーヴェはひとつあくびをした。だんだんといつものように思考ができるようになってくる。そこで、カーヴェはメラックに時間の計測を頼んでいたことを思い出した。
「ああ、メラック。そういえばそうだった。計測を頼んでいた時間がもう経ったのかい?」
メラックはピッと電子音で返事をした。そうだ、という意味だろう。カーヴェはうなずき、了解したということを伝えた。
その後、カーヴェは桶に入った水を使って、染め粉の洗い残しがないようにしっかりと髪を洗っていった。ひととおり流し終えると、用意されてあったタオルで水気をふきとる。そしてそれも終わると、カーヴェは目の前の鏡に映る自分を見た。鏡に映るカーヴェは普段は着ないような色合いの服を着ていて、頭にタオルを巻いている。カーヴェは鏡を見ながらゆっくりとタオルを頭から取った。彼の髪は茶色になっていた。
カーヴェは自身の髪の毛をいくつか束にして取って観察した。とても綺麗にムラなく染まっている。その出来栄えにカーヴェは満足した。
最後に、カーヴェが変装の仕上げとして行ったのは全身に化粧を施すことだった。用意されていた濃い色のファンデーションを手に取り、鏡で確認しながらくまなく塗り残しがないように肌に塗っていく。塗り終えたら、粉を上からはたいてベタつかないようにして完成だ。カーヴェは最終確認として、鏡の前で背中からも正面からもまんべんなく自身の身体を見ていった。そこにいたのは、まるで砂漠に住む民のような風貌の、見知らぬ男であった。
カーヴェが変装という身支度をたっぷり時間をかけてやっと終え、アルハイゼンやドリーがいる部屋に戻ったとき、そこにはカーヴェが隣室に行く前まではいなかった男がいた。カーヴェが着ているのと同じような、砂漠地域に住む者が着ていそうな服を身にまとっている。風貌からいって砂漠出身の者であろう。ここにいるということは、これからカーヴェたちに同行するという協力者のキャラバンの一人であろうか、とカーヴェは予測した。
戻ってきたカーヴェの方をそのキャラバンの一人であるらしき男を含めた、部屋にいる三人ともが一斉に向いた。アルハイゼンはカーヴェを見てすぐに妙な表情を浮かべた。まるで、目の前にいる人物は誰だ、というような感じだ。反対にドリーはとても満足そうな表情を浮かべていた。カーヴェの変装が思ったようにうまくいっていたことに満足しているのであろう。
キャラバンの一人だと思われた男の顔をカーヴェは見た。彼の顔にはどこか見覚えがある。しばらくした後、カーヴェはその見覚えの正体に気づき、驚いた様子で言った。
「シェイクズバイルさん」
「カーヴェさん、無事だったのか」と男は言った。
いつもと少々違う風貌ではあったが、カーヴェの勘違いではなく、彼はたしかにシェイクズバイルであるようだ。
「ああ、なんとか。もう一度会えたら、僕はシェイクズバイルさんに聞こうと思っていたことがたくさんあるんだ」
シェイクズバイルは少々言いにくそうな様子でうなずいた後、話し出した。「もしかして、ズバイルシアターを解散させたことだろうか。あれには理由があったんだ。本当にだ」
「理由?」
「そうだ。俺がスメールを離れようとしていたからなんだ。アルハイゼン書記官から、国を出ることに協力してくれる人がいるとの話を聞いてね」
「君はシェイクズバイルさんがスメールを離れるということを知ってたのか?」カーヴェはアルハイゼンの方を見た。「その、僕に国を出た方がいいと教令院前の広場で言う前から」
アルハイゼンは腕を組むと言った。「そうだ。彼は君より先に釈放されていたからな。釈放されてすぐに、君と同じように話をもちかけたんだ。話を聞いた当初は君と同じように国を出ることを拒んでいたが、俺がスメール国外へ行くことのメリット等を話したらすぐに考えを改めてくれたよ。それで、彼を協力者のドリーの元に俺が連れてきたんだ。だから、彼はここにいる。君と一緒にキャラバンへ同行し、砂漠を越えるんだ」
アルハイゼンの言葉を聞き、カーヴェはシェイクズバイルがサングマハベイ邸にいて、砂漠出身の者に見えるように変装している理由について理解した。しかし、事情について理解はできたが、カーヴェには納得のいかない点がひとつあった。なぜ、アルハイゼンはシェイクズバイルが国を離れることをカーヴェに言ってくれなかったのかということだ。
「シェイクズバイルさんのこと、あのとき教えてくれたって良かったじゃないか。なんで言ってくれなかったんだ」
不満気にカーヴェはその旨をアルハイゼンに向かって言った。
「君がそのことを聞く前に俺の言葉をつっぱねてその場を去ったのではないか」
アルハイゼンはそう言い、鼻を鳴らした。たしかに彼の言う通りでもある。カーヴェはそれ以上なにも言わず(なにも言えずの方が正しいかもしれない)、深くため息をついてから、そういうことにしておこうと静かに言った。
彼らのちょっとした言い合いがちょうど終わったタイミングで、部屋の扉を叩く音が響く。
「どうぞ」とドリーは部屋の扉を叩いている主に入室の許可を出した。
入室の許可が出たことで、扉が開かれる。部屋に入ってきたのは、砂漠に住む民族の特徴をもつ、体格のいい男だった。戦闘に慣れていそうな体つきだ。このタイミングで入ってきたということは、今度こそ砂漠越えに同行するキャラバンの一人だろう。カーヴェたちはドリーが話し出すのを待った。
「準備はできましたかしら?」ドリーは言った。それに対し、部屋に入ってきた男はうなずく。
ドリーはカーヴェとシェイクズバイルの方へ向き直ると言った。「この方は、今回私たちに同行するキャラバンの隊長さんですの。キャラバンの方は出発の準備が整ったみたいですわ。あなたたちの準備がもうよろしければ、ここを出ようと思いますの。大丈夫でしたかしら?」
ドリーの問いかけに対し、シェイクズバイルとカーヴェはほとんど同時にうなずいた。イエス。準備は完了だ。
「ここでお別れだな」
二人がうなずいたのを見たアルハイゼンはそう言った。
「寂しいこと言うじゃないか」いつも家でアルハイゼンと話すときと変わらないように、できるだけ努力しつつ、カーヴェは言った。「スメールの情勢が変われば戻ってくるかもしれないだろう」
「どうだかな。移民した人が母国に戻って来ることは珍しい。それは、君だって知っているだろう。君の周りにもいたはずだ」
カーヴェは少し考えてから、一人の名前をあげた。「それって母さんのことを言っているのか?」
アルハイゼンはうなずいた。「ああ。だが」
「だが?」
「君が一生スメールに戻って来なかったとして、君の名声はここまで轟くだろう。今と変わらずにだ。そのことで、君が無事に他国へ渡って現在のこの国では成し得なかった、君が本当にやりたい仕事をしているのを知ることはできる」
「なんらかの手段で近況報告しなくてもってことか」カーヴェは笑みを浮かべつつ言った。「まあ、君の耳に届くくらいの噂になるようには頑張るよ。他国に移住してすぐには無理かもしれないけど」
アルハイゼンはうなずいた。「期待しているよ。大建築士様」
「アルハイゼン書記官」
カーヴェとアルハイゼンの別れ際の挨拶が終わったタイミングを見計らったように、シェイクズバイルはアルハイゼンのことを呼び止めた。アルハイゼンはシェイクズバイルの方を振り返った。
「なんだ」
「あなたに礼を言いたくて。ここまで取り計らってくれてありがとう。あなたのこれからの幸運を祈るよ」
「さて、挨拶は済んだかしら?」ドリーはカーヴェたちに向かって尋ねた。
カーヴェとシェイクズバイルはうなずく。カーヴェは言った。「ああ、行こう」
かくして、ドリー、カーヴェ、シェイクズバイルの三人はキャラバンに同行してドリーの家から出発した。スメール国外逃亡という長きに渡る旅が開始したのだ。
カーヴェにとって、今日という日はとても長く感じられる一日だった。既に日は落ち始め、空の色が赤くなっている。
スメールシティから少し離れた小高い丘の上を通ったとき、カーヴェはふとシティの方を振り返った。赤く染まった空の下、スメールシティでよく見られる様式の、見慣れた緑のドーム状の屋根が建ち並んでいるのが見える。
カーヴェはキャラバンが組んでいる隊列の先頭がいる方へ再び向き直った。そして、心の中で密かにスメールシティに別れを告げた。