キャラバンは予定通り、雨林にある道をひたすら砂漠地域の方へ向かって進み続けた。何度か獰猛な肉食の野生動物に遭遇したが、それ以外は何事もなく順調に旅は進んでいった。
さすがドリーがもっとも信頼するキャラバンということもあり、肉食の野生動物に遭遇した際の彼らの対処はとても手慣れているものだった。キャラバンのメンバーは、野生動物が近づいてくる前に武器や特殊な香料を使って動物たちを追い払った。そういったこともあり、カーヴェたちは夜に休息をとる際、野宿だというのに家の中で寝るときのように安心して休むことができた。
そうやって歩き続け、キャラバンはほとんど予定通りの日数でキャラバン宿駅に到着した。ドリーが話していた砂漠越えのルートによると、ここがひとつ目の目的地であった。一行はここで検問を通過する必要があるのだ。
キャラバンはキャラバン宿駅につくなり、休息もほどほどにして検問が行われている教令官舎に向かった。一行が教令官舎へついたとき、大通りに面したキャラバン宿駅を通過する際には必ず前を通るような位置にある教令官舎の前には、検問を受けるためか人々が長蛇の列を作っていた。キャラバンのメンバーは、隊長により全員が揃っていることを確認されてから列の一番後ろに並んだ。
ドリーが言っていたように、そこまでしっかり確認しないで済む場合もあるようで、列の順番が進むのは思ったより早かった。ひとつのグループを確認するのに数秒しかかけないこともあれば、数分かけることもある。
「これの用途は?」
ある程度まで列が進むと、検問をしている様子がカーヴェの耳まで届く。
「大口の注文を受けたので納品しに行くところなんです。注文書もあります」
検問を受けているであろう男の声で、そう言うのが聞こえる。彼はおそらく商人なのだろう。
「ふうむ」
検問官がそう言うと少しの間が空いた。商人が申告していた注文書を確認しているのかもしれない。
「注文書に記載の量より、荷台に積んである量は一箱分多そうだ。これはなぜだ?」しばらくして、検問官は尋ねた。
「ええと、おそらくですが、荷を積むときに個数を数え間違えたのかと」
「ふうむ」
検問官はまたそう言った。商人が本当のことを言っているのか、嘘を言っているのか、検問官が商人の様子を観察している様子がありありとカーヴェには想像できた。
「注文書に記載の個数を超過した分は下ろしてから通過するように」検問官はしばらくした後そう、きっぱりと言った。
「それはひどいじゃありませんか。俺はこの下ろした分、損をするんですよ。これを一箱仕入れるのにはかなりの金額がかかっているんです」
「とは言ってもこれは決まりだから」
「一箱くらいなんとかなりませんか」
「ならない」検問官はなおも言い訳をする商人に対し、ぴしゃりと言った。「これは一度の取り引きで売買できる個数が制限されているものなのだ。注文書に記載されている数字がその個数の上限でもあるからね。だから無理だ。申し訳ないがこの一箱は諦めるといい」
「なあ」カーヴェは近くにいたドリーの肩を叩くと身を屈めた。
「なんですの?」
「本当に僕たちのことを怪しまれたりしないだろうか。今、検問を受けている人は運んでいる箱の数まできっかり注文書と同じか確認されていたみたいだけど」ドリーにしか聞こえないように声をひそめてカーヴェは言った。
「大丈夫ですわよ。ほら、あれを見てください」
ドリーが指さした方向をカーヴェは見た。検問官らしき男が大きな箱を抱えて教令官舎のそばにある、教令官舎よりは少し小さめの建物の中に入っていく。
「あれ、大きいでしょう」ドリーは言った。「さすがにあんなに大きいものは、検問官も見逃しませんわよ。書類に記載のものと、よほど差異がなければ呼び止められませんわ。心配しなくても大丈夫です。それに、検問官たちはここを通る荷物にはとても関心を寄せていますが、誰が通ったのかには関心はありませんの」
「ならいいんだけど」カーヴェは屈ませていた身を起こした。
カーヴェが立ち上がったとき、検問を待つ列の脇を荷車を引いている駄獣とその主人であるらしき商人のような風貌の男が、ずいぶん落ち込んだ様子で歩いていくのが見えた。商人はちょうどカーヴェたちのそばを通る際、一言悪態を漏らした。くそったれ、と。おそらく彼が、先ほど検問で仕入れた品をひと箱没収された者に違いない。
列が進む。カーヴェたちは前のグループが進んだのにあわせて列を詰めた。順番が近づいてきたためか検問を行っている検問官たちの姿が時折、人と人の隙間から見えるようになってくる。
検問官は何人かいたが、そのうちの一人にカーヴェは目がいった。声からいって積み荷を没収された商人の検問を担当していた者だろう。学者がよく好んで着ているような丈の長い、上下が繋がった服を身にまとった彼女の顔にカーヴェは見覚えがあった。カーヴェが教令院の学生だった時分、同級生だった者で、かつ、彼と同じ妙論派に所属する人物だったからだ。カーヴェが教令院を卒業してからもう何年も経つし、加えて彼女の雰囲気は当時とかなり異なっていたが、それでも彼女のことをカーヴェは覚えていた。学者というのは記憶力が良いのだ。つまり、彼女もカーヴェの顔を覚えている可能性が高い。
カーヴェは慌てた。
焦りつつも極力、素振りには見せないように努める。彼は辺りを不審に思われない程度にゆっくり見渡した。
「どうかしましたか?」
カーヴェのすぐ隣にいたシェイクズバイルは、さすがにカーヴェの様子がおかしいことに気が付いたのか小声で尋ねた。
「な、なんでもないよ」
カーヴェは答えた。そう答えてすぐに列が動き出す。カーヴェたちの順番は次だ。カーヴェは列が進むのにあわせて歩きながら、素早く検問官の方を見た。誰もカーヴェがいる方には顔を向けていない。そのことだけ確認すると、カーヴェは荷物が積まれていて検問官たちがいる方からは見えにくい荷台の後方部分から、とっさに荷台へ飛び乗った。誰にも気づかれないようごく自然な動作だった。カーヴェが荷台に乗るのと同時に、動いていた列は停止した。
荷台に乗るとすぐに、カーヴェは荷台の様子を確認した。荷台は商品が詰まった箱でいっぱいである。ほとんど身動きできるスペースはなく、荷物たちが、ある種の美しささえ感じるほどにぴったりと押し込まれたり、積み上げられたりしている。カーヴェの焦りはさらに大きくなった。とっさに荷台へ乗ったはいいが、どこに隠れればよいのだろうか。この場所にいたままでは、検問官が荷台にある荷を見せてほしいと言ったら最後、見つかってしまう。
そのとき、再び荷台が振動し出した。前のグループの検問が終わり、列が進み始めたのだ。いよいよ大変なことになってきた。荷台に飛び乗る前の状況からいって、次はカーヴェが同行しているキャラバンの順番に違いない。
規則正しい振動がしばらく続いた後、ひときわ大きな振動があってからカーヴェが乗る荷台は停止した。その、ひときわ大きな振動が発生したのにあわせて、衝撃のためか荷物が動く。カーヴェは一箇所、人がなんとか通れそうなくらいの隙間が生まれているのに気づいた。彼は急いでその隙間の方に行き、中をのぞく。高く積まれた荷に四方向囲われてはいるが、人が屈めば入れそうなほどの空間がそこにはあった。
カーヴェはそれ以上なにも考えず、急いで隙間から身をねじこんだ。荷物の間にできた空間へカーヴェが身を屈めたちょうどそのとき、荷台全体にかかっていた覆いをめくる、布のこすれる音が響いた。
「一、二、三……」
女が数を数えているのが聞こえてくる。先ほど、商人の検問をしていた際に聞こえてきた声と全く同じものだ。現在、挟んだ向こう側にいる積み上げられた荷を確認中の検問官は、カーヴェのかつての同級生のようだった。
「十、十一……」
検問官が荷をカウントしている声は、まるでカーヴェが見つかるまでのカウントダウンのような気がだんだんとしてくる。カーヴェからは荷に遮られて向こう側の様子を見ることができないので、物音をたてないよう、なるべく動かないようにすることしかできない。カーヴェは自身の心臓がこれ以上ないほど早く鼓動しているのを感じとった。生きた心地がまるでしない。早く終わってくれ、奥の方の荷物を見せてほしいと言わないでくれ、このまま何事もなく去ってくれ、とそれらのことだけを考える。
紙にペンを走らせる音がする。その音はかすかなもののはずなのに、カーヴェの耳にはやけに大きく感じられた。
「問題ないでしょう」と彼女は言った。布のこすれる音が再びする。彼女がめくり上げていた覆いをもとに戻したのであろう。
再び荷台が規則正しく振動し出した。検問が通過できたので動き出したのだ。カーヴェは
彼の心臓はそれからしばらく経ってからも、荷台の振動よりも早く動き続けていた。数分経ってやっと心臓が落ちつきを見せ始めると、カーヴェは身体の力を抜くためにふうっと息を吐いた。
その後、カーヴェは荷の間の隙間から這って抜け出した。そのまま這っていき、荷台にかかる覆いをめくる。周りは砂だらけだ。そこは見間違えようもなく砂漠だった。カーヴェは砂漠越えの一歩を踏み出したということを実感した。
日が落ちて辺りが薄暗くなって暗闇が見え始める頃、キャラバンは補給地点である集落に到着した。集落は中心に立ってぐるりと一周見渡せば、全てが把握できてしまうほど小規模なものだった。歩いて半日かからない距離にあるアアル村や、アアル村以外の周辺にある集落ともほとんど交流がないのだと聞かされても、納得できてしまうくらいの規模だ。
キャラバンは集落についてすぐに、集落中央の広場を借りて荷を下ろす作業をし始めた。ドリーはキャラバンのメンバーに対し、この集落に納品するものとそうでないものと、的確に指示を出していく。カーヴェとシェイクズバイルもキャラバンの他のメンバーと同じく、ドリーの指示通りに荷物を運んだ。
この集落に納品する荷を全て下ろし終えた頃、集落の住民である一人の老人がキャラバンのメンバーが集まる方へゆっくりと歩いてきた。
「皆さま、ようこそお越しくださいました。私はここで取りまとめ役のようなものをやっておる者です。今回はいつもより人数が多いような気がしますね。ここ数年はいつも同じ顔ぶれの方がいらしていたのに、見慣れない顔があるようです。それに、ドリーさんまで直接いらっしゃるとは珍しい」
「いつもお世話になっておりますわ。たしかに、いつもは他の人に頼んで納品してもらっていますものね。これにはちょっと事情があるのですわ」とドリーは答えた。
「事情?」
「ええ、この度
ドリーはそう言うと、カーヴェとシェイクズバイルの方を示した。事前にそのような打ちあわせはしていなかったため、彼らは少々彼女の紹介の仕方に驚いたが、ドリーが作り出した設定にとりあえずは従うことにした。カーヴェとシェイクズバイルは各々よろしくと言い、手を差し出すと取りまとめ役の老人と握手を交わした。
「なるほど。でも、わざわざ砂漠を越えるルートをとらなくてもよろしいでしょうに。船だったらもっと楽に移動できるのでは?」
取りまとめ役の老人は、握手をするために差し出していた手を引っ込めるとそう言った。
「たしかに一般的な人ならばそう考えるでしょうね」ドリーは老人のもっともな意見にも表情を変えず、商人らしい笑みを浮かべたまま言った。「でも、私は船に乗っている時間がもったいないと思っておりますの。だって、船に揺られている間は休息をとるか、他の乗客と会話を楽しむか、もしくは海原を眺めることしかできませんもの。その時間は一モラも生み出しませんわ。それに、船が出港する港に行くまでの時間も考えますと、かなり余裕をもって旅程を組まねばなりませんわ。それって無駄だと思いません? 陸路を行けば、道中商売ができて一モラどころか何万モラも稼げますのに。さらには、珍しい品を道中手に入れられる可能性もありますのよ。珍しい鉱石だとか。私、商売をしに行くまでの移動ですら無駄なことはしたくないんですの」
そう言ったドリーに対して、取りまとめ役の老人は愉快であるというような大きな笑い声を上げた。
「さすがドリーさんですな。ここからフォンテーヌまではまだまだあります。しかもこの先はずっと砂漠地帯です。小さな集落ではありますが、ゆっくりここで休息をとっていくと良いでしょう」
「ありがとうございます。さて、休息の前に――」
ドリーはそう言いながら、先ほど荷台から下した荷物が置かれている方を見た。あそこにあるのは全て、この集落に納品する品々である。
「まずは、あちらの方を片付けましょうか。ここへ納品する品物の確認をお願いいたしますの。二人とも、荷物の移動を手伝ってくださいまし」
最後の言葉はカーヴェとシェイクズバイルへのものだ。ドリーはカーヴェたちの反応を待つことさえせず、荷物の方へ向かって歩いていった。取りまとめ役の老人は後ろを向いて、集落全体に聞こえるような大声で担当者らしき人物を呼んでいる。カーヴェとシェイクズバイルは顔を見あわせた。
「なあ、いつから僕たちはドリーの手下になったんだ?」
「さあ」シェイクズバイルはカーヴェの疑問に対しそう答えた。「カーヴェさんはあの商人と昔から知りあいなのかい」
カーヴェはうなずいた。「ああ、昔ちょっと仕事を引き受けたことがあってね。それからの付きあいだ」
「カーヴェさんの知りあいはずいぶん、ある意味では
シェイクズバイルはそう言うと歩き出した。カーヴェも彼について行く。
この後、二人ともが休憩をとる時間さえないくらい、今まで経験したことがないほどに働かされたのは言うまでもない。
夜になり、砂漠の気候らしく昼間の服装では寒気さえ感じるような時間になってようやく、カーヴェたちはドリーに頼まれた作業から解放された。集落の倉庫の整理まで手伝わされ、「ここまで僕たちがやるべきなのか」とカーヴェは文句を言ったが(もちろん、シェイクズバイルもカーヴェと同じような愚痴をことあるごとに漏らしていた)、ドリーは「こういうサービスは今後の商売のために大事なんですわ」と言うだけでとりあってくれなかった。
集落の人が用意してくれた食事をとった後、やっと一息つける時間がやってくる。
カーヴェは皆が集まっている方から少し離れたところにある砂岩へ腰かけて、なにをするともなく虚空を見つめていた。というのも、疲れきっていてなにかをする気力がわかなかったのだ。ここには数日しか滞在しない予定で、それまでに疲れをとりきることができるのか、カーヴェは少々不安になってきていた。まだまだ道のりは長いのだ。疲労をため込みすぎて、砂漠を越えるのに支障が出てはいけない。
カーヴェが空中の一箇所を見つめ続けていると、あるとき、誰かの脚が視界に入った。それまで彼の視界にあったのは地面と暗い夜の空だけであったため、その誰かの脚は妙に異質なもののように思えた。
その脚の持ち主は集落の取りまとめ役の老人であった。
取りまとめ役の老人がカーヴェの元に来たのは、オアシスで水浴びをすることを勧めるためだった。聞けば、食事中に見たカーヴェの表情が明らかに疲れきっていたものであったことを気にしていたらしく、身を清めることでリフレッシュできるのではないかと思ったらしい。
「オアシス?」
カーヴェは疑問に思って尋ねた。集落についてから荷運びでカーヴェは集落の隅々まで動きまわっていたが、そのようなものはどこにも見あたらなかったはずだ。
「ええ。実をいうと、我々の間でしか知られていないオアシスがあるのです。お気づきにならなかったでしょう」
カーヴェはうなずいた。
「我々が小さいながらも、こうやって集落を築けているのはそのオアシスのおかげなんですよ。我々の――その、秘密のオアシスはそこまで大きくありません。時期によっては水がなくなり、その間我々はここを離れたりしなければいけなくなったりするほどです。もちろん、年間を通じてこの地で暮らすのが一番長くはありますが。だから、我々はそのオアシスが蓄える水で賄いきれないようなことはやらないし、賄いきれなくなるほどオアシスの水を使用する人数も増やしてはならないという決まりを作り、それを固く守っているのです。そういった事情があり、集落以外の人に使われたくないので『秘密のオアシス』という名前なのです。オアシスが見つかりにくい場所にあるという理由もありますが」
取りまとめ役の老人はそう言った後、立ち上がった。
「さあ、ついてきてください」
カーヴェは取りまとめ役の老人についていく。もちろん、そばに置いてあったメラックを持っていくのも忘れない。
老人が向かったのは集落の奥の方にあった崖だった。カーヴェは今まで気づいていなかったが、崖の一箇所に駄獣さえ通れなさそうな幅しかない隙間があった。老人はその隙間の手前で立ち止まるとカーヴェの方を振り返った。
「ここが秘密のオアシスへの入口です。この場所に滞在している間は、このオアシスの水はご自由にお使いいただいてかまいませんよ」
カーヴェは礼を言った。「ありがとう。滞在中、使わせてもらうよ」
「ええ、おかまいなく。では、私は先に戻りますね」
老人はそう言うとその場を離れた。
カーヴェは秘密のオアシスの入口だという、崖にできた隙間をじっくり眺めた。入口にしてはずいぶん小さく、大人が並んで二人やっと通れるほどの幅しかない。この先にオアシスがあるとは、にわかに信じがたかった。
子供の頃なら後先考えずにこういった隙間にも入っていっただろうが、大人になった今では理由がなければこういう場所に入っていこうとは思わない。入っていったら想像以上に狭い箇所があって出られなくなってしまったら一大事だからだ。しかし、ここで眺めているだけではオアシスの存在が嘘か
カーヴェはそうやってしばらく考え込んでいたが、あるとき、彼は自身の相棒のことを思い出した。手に持っていた工具箱のメラックの大きさと秘密のオアシスへの入口を見比べる。入っていき、多少入口より狭い箇所があったとして、メラックくらいの大きさなら前進も後退もできなくなってしまうなんてことはなさそうだ。
「メラック、先導してくれるかい」カーヴェはそう言うと、メラックから手を離した。
メラックはまるで任せろとでもいうようにピッポと返事をし、カーヴェの目線の高さまで浮かび上がると隙間から中に入っていった。
カーヴェは意を決して、メラックの後をついて隙間から中に入っていった。
結論からいうと、秘密のオアシスの存在は『真』の方だった。
カーヴェが危惧していた、途中で狭い箇所があったらどうしようかなんてことは杞憂に過ぎなかった。中は外から想像できないくらいの広さがあり、一番奥の方に小ぶりの水たまりがある。どうやらこれが秘密のオアシスらしい。
秘密のオアシスの水源は地下にあるようで、水が地下から湧き出ている場所がある。カーヴェは後ろに下がってオアシス全体を眺めた。なるほど、とても絵になりそうな光景だ。カーヴェは目の前にある光景をスケッチしたい欲にかられた。前方を飛ぶメラックにスケッチブックをよこすように頼もうとして、少し迷った末にやめた。
ここは『秘密』のオアシスなのだ。秘密というのは記録に残してはいけないものである。学者であれば、たとえ秘密とされているものでも記録に残すことこそが学者としての使命だろうと皆が口を揃えて言うだろう。だが、カーヴェはそうしなかった。今のカーヴェは教令院卒業者名簿から名前を抹消されていて、学者ですらないのだ。だから、学者としての使命なんてものはもう関係がなかった。
「メラック」
カーヴェはメラックを呼んだ。メラックは主人の呼びかけに対し、電子音で返事をする。
「タオルを出してくれるかい」
カーヴェが頼んだのはスケッチブックではなく、水浴びするのに必要なものであった。カーヴェはメラックからタオルを受け取ると、オアシスのそばにある大きめの岩の方へ行き、その岩の上にタオルを置いた。そして、彼は都合よくオアシスの岸辺に置いてあった桶――集落の人が水を汲むために置いてあるのだろう――に秘密のオアシスの水を汲み上げると、髪からていねいに洗っていった。
カーヴェは秘密のオアシスでの水浴びを終えた後、濡れた髪をタオルで拭きながら集落内の住居があるエリアへ向かって歩いていた。
来た道を戻るだけであったが、行きと違う点もある。住居があるエリアの方から、なにやら楽器の音が聞こえてくるのだ。
カーヴェは足を止めると、耳をすませた。
楽器が奏でるその旋律は、フォンテーヌへ移住してしまったあの作曲家の男が作った曲にどこか似ている。彼と別れてからまだそこまで日にちが経っていないが、どこか懐かしさを感じる。作曲家の男は砂漠に住む人々が奏でる音楽の要素をとり入れたものも作曲していたため、聞き覚えがあるのはそのためかもしれなかった。
カーヴェはふたたび歩き出した。
自然と、歩みは聞こえてくる音楽へあわせたものになっていく。近づくにつれ、細部まではっきりと聞きとれるようになり、曲を構成している要素がわかるようになる。楽器の演奏にあわせて、歌をうたってもいるようだ。その音楽はテンポの速い、ダンス曲のようだった。聞いているだけで楽しくなってくるような、身体が動くような、スメールシティでは絶対に聞かないような
音楽の出どころである広場にカーヴェがたどりついたとき、そこにはこの集落に住んでいるであろう人々がほとんど全員集まっていた。
三人の若者が楽器を奏でている。譜面は見ていない。何度も演奏したことのある曲なのであろう。若者たちが奏でる旋律にあわせ、声を乗せるようにうたっているのは、まだ教令院に入学する一般的な年齢にも満たないであろう少年だった。少年がもつ、声変わり前の少年特有の声質が、曲になんとも不思議な響きを足している。
そして、広場の中央では赤髪の少女が曲にあわせて踊っていた。彼女が踏むステップは流れている音楽と驚くほどにぴったりだ。まるで、今カーヴェが見ている演目はもう何百回もやっていて、自然と身体が動くのだとでもいうかのようだ。踊り子は赤い髪をしており、それもあってか、どこかニィロウを思わせた。
ニィロウを思い起こさせる舞だとカーヴェが思ったとき、それを起点にして、ズバイルシアターの舞台にニィロウが舞を披露する様子の描かれた絵画が置かれている、あの光景が彼の中に浮かびあがってくる。
目の前にある現実世界の光景と、絵画に描かれている光景が重なった。
カーヴェはその重なった光景を見て目を見張った。
なんて美しい光景なんだ。神々しささえ感じるような、素晴らしい踊りだ。
カーヴェは集落に住む人々が集まっている広場の方へ一歩足を踏み出した。今の彼の中には悲しみなど少しもなかった。彼の思う理想郷を見つけたのだ、ここではカーヴェが愛する芸術全てを受け入れてくれる。
芸術家たちの楽園はここにあったのだ、とカーヴェは思った。
以前書いた話の改訂版になります。
同人誌にするために改訂作業をしていたのですが、当時の推敲がだいぶ甘かったようでかなり修正が大変でした……
元の文章だと意味がわかりにくかったり、つながりがおかしいところを大幅に修正したので、読みやすくはなっているかな、と思います。
改訂前のあとがき
まず、最後まで読んでくださった方々に感謝の気持ちを申し上げます。CP要素あるわけでもないし、短めの一般長編小説くらいの長さがあるし、幻覚要素強めだしでかなり人を選ぶ内容ではないかと思うのですが、反応いただけて大変励みになりました!
ゲーム本編をやったとき、わりとディストピアなエッセンス入っているなと思ったので、ディストピアIFみたいなのを書いている人いるのかなと思ったのですが、案外いなかったのでこの話を書きました。原神というゲームが上手いなあと思うのは、ユーザーに色々と妄想を引き起こさせるような要素があることですね。テイワットを旅しているとほんとうにわくわくする要素がたくさんあります。
この話にはディストピアな雰囲気以外にも、このキャラクターのこうするところが見たい、というのもたくさん詰め込めたかなと思っております。
アルハイゼンが裏で色々策を練って動いているとことか、ニィロウがすごくいい人なんだというところとか、カーヴェがドリーに言いくるめられるところとか、逆にドリーがアルハイゼンに言いくるめられてしまうとか。全部、ゲームをやる中で私がしていたこうするだろうなという妄想なので、解釈が一致するかわかりませんが、解釈の一例ということでお楽しみいただければと思います。
だいぶ文字数いっているので、紙の本にまとめたいなあとも思いつつ、後日談的なものも書き足したいなと妄想しつつ、まだまだ先になりますが紙の本にすることにもチャレンジしたいなと思っています。
というのも、十万字越えの小説なんて絶対にスマホで見ると読みにくいもの……
では、長くなりましたがここまで読んでくださった方々ありがとうございました!