画家の男の家を訪問してから数日後のことだ。その日のカーヴェはまだ日も落ちきらないうちに帰宅した。
彼は家にある食材を使って作ったもので簡単に夕食を済ませると、リビングルームのカウチソファに座ってなにか状況が変わるわけでもないが、ただなんとなく仕事で使用している帳簿を眺めていた。数十ページ程の帳簿を最初から最後まで眺めること三周目があと一ページで終わろうとしたタイミングで、なにやら玄関扉の方から音がして騒がしくなる。時間を確認すると、もう夜と言ってもよい時間帯であり、カーヴェはルームメイトが帰宅したのだろうと思った。
扉を閉める音の後、施錠をする音がして玄関に敷いてあるマットで靴の汚れを落とす音がリビングルームにいるカーヴェの耳まで聞こえてくる。『帰宅後は必ず玄関のマットで靴の汚れをきれいに落とすこと』――これはカーヴェ提案の元、カーヴェとアルハイゼンが共同生活をする上で決めたルールであった。
帰宅した人物のたてる音はその後、リビングルームの方へ近づいてくる。入ってきたのはもちろんアルハイゼンで、彼はカウチソファでくつろいでいるカーヴェを見ると、一言「ただいま」と言った。
「おかえり」
カーヴェは帳簿から視線を外して返事をした。そのまま視線をアルハイゼンが腕から下げている鞄の方に移す。なにやら良い香りが漂ってくる。この香りはきっとランバドの店で購入したシャワルマサンドに違いないだろう、とカーヴェは予想した。
アルハイゼンはカウチソファの前にあるテーブルの上に鞄を置くと、リビングルームから出て行った。彼は帰宅するとまず洗面所で手を洗い、次に自室へ上着を置いて食事時に読む本を選んだ後、キッチンから皿と飲み物を取ってくるのだ。これは共同生活をするうえで決めたルールではなく、アルハイゼンのいわば帰宅時のルーティーンであった。
数分後、ルーティーンを済ませたアルハイゼンが再びリビングルームに戻ってくる。カーヴェがちょうど帳簿の三周目を読み終えたタイミングだった。アルハイゼンはカーヴェが座っている位置からテーブルを挟んで斜め向かい側のカウチソファに腰を落ち着けると、鞄から自分の夕食を取り出して皿に移し、それから小脇に挟んでいた本の半分を超えたあたりを開くと食事を開始した。本を読みながら食事をとるのはテーブルマナーにそっているとはいえないが、家で食事を取るときのアルハイゼンはいつもこんな感じであった。
本のページを右手でめくり左手に持ったサンドを一口かじる。カーヴェはちらりとその様子を見た。アルハイゼンが左手に持っているのはシャワルマサンドであり、カーヴェの予想が当たっていたことを意味していた。
さすがに四周目へ入るのはどうかと思ったカーヴェは、帳簿を目の前にあるテーブルの上に放り出した。長時間同じ体勢を続けていたことによる筋肉の凝りをほぐそうと大きく伸びをし、ふうっと大きなため息をつく。
「仕事の調子はどうなんだ」
アルハイゼンは本から目を離さずに言った。だいたい毎日顔を合わせはするので、アルハイゼンにはカーヴェの仕事が急に白紙になった件は既に伝えてあった。
「正直にいうと良くない状況かな」カーヴェはそう言うとまたもや大きなため息をついた。「来月分のドリーへの返済はなんとかなるけれども、再来月の返済はこのままだときつい状況だ」
彼は過去に自身の事業のため請け負うことになった借金の返済のことを心配していた。彼の債権者であるドリーという商人はとてつもない守銭奴で、返済が遅れるとなったらなにを言われるかわかったものではなかった。再来月分の返済で頼りにしていた例の案件が白紙になった以上、他の仕事を探さねばなるまいが、今のところ新たな依頼のあてもない。
「再来月分の家賃はどうするんだ? それと先週、後で払うと言っていたから俺が君の分もまとめて払った飲み代もまだもらっていないが」今度は本から顔をあげてカーヴェの方を見やりつつアルハイゼンは言った。「俺の方は別に払うことが遅れても問題ないが、事前に遅れる旨は言ってほしい」
「君に支払わなければならない分もちゃんと払うさ。ドリーへの返済が遅れないよう仕事はえり好みせず探すつもりだったし、金がなくて途方に暮れるようなことにはならないはずだ」とカーヴェは自信ありげに言った。
そんな様子のカーヴェに納得したのか、はたまたその自信はどこからくるのだとあきれてなにも言えないのか、アルハイゼンは再び読書と食事に戻った。
カーヴェはアルハイゼンがなにも言ってこないのを見ると、ソファの背もたれに体を預けて部屋の天井を眺め出した。スメールの都市部でよく見られる様式を用いて建てられた彼らの家の天井は高く屋根の形にそった勾配がついており、一番上の様子は暗くなっていてよくわからない。しばらくの間、部屋の天井を見上げるカーヴェの耳にはアルハイゼンがたてる本のページをめくるかすかな音だけが響く。
そんな二人の間に横たわる沈黙を破ったのはアルハイゼンの方であった。彼は食事を終えてシャワルマサンドが包まれていた紙をまるめて皿の上に置くと、手に持っていた本を閉じた。そしてこう言った。
「君のたくさんいる知り合いたちから仕事を
「そう簡単に言うけれども、それはできない」カーヴェは少々いらだった様子で言った。「久しく連絡を取っていない人たちなんだ。急に連絡をして仕事を紹介してほしい、なんて言えるはずがないだろう。図々しいにもほどがある」
アルハイゼンがたてたハードカバーの本を閉じる重い音でソファから身を起していたカーヴェは、正面からアルハイゼンのことを見据えた。アルハイゼンはカーヴェと目を合わせながら、深いため息をついた。カーヴェが言ったことに対して、理解できないと言いたいのだろう。今度ははっきりと、あきれたといった様子をアルハイゼンは微塵も隠していなかった。
「えり好みせず仕事を探さなければならない人間が、他人に対して迷惑だから遠慮しておこう、という気遣いをしている場合なのか?」
「他人に対する気遣いはいつどんなときだって必要だろう。例え、全てを失って辛い思いをしているときもだ。君も知っているだろうけど僕は昔からこういう考え方をしているんだ。君が言う、他人を優先しがちだというね。だから、とやかく言っても無駄だよ」と開き直った調子でカーヴェは言った。
「この際だから言わせてもらうが」アルハイゼンはカーヴェが無駄と言ったのにもかかわらずあきらめる様子はないようだった。「そうやって自分を犠牲にして他人を優先した結果、結局のところその
違うか、といった様子でアルハイゼンはカーヴェに真正面から
「なにも相手が困るほどしつこく聞けと言っているわけではないんだ。君は他人の心情に敏感だから、相手が君に悪い印象を感じない程度に頼むことができるだろう」
そうやってカーヴェのことをあおるかのように言うアルハイゼンへなにか言い返せないかと、カーヴェは思案した。しかし数秒考えても、なにも反論を思いつかない。カーヴェはしぶしぶ、「わかったよ。頼ってみるさ」と口にした。
カーヴェはそう言った後、そのまま立ち上がってリビングルームを立ち去ろうとした。あまり良い気分ではなかった。アルハイゼンは昔からこういう奴で、たしかに正しいことを言ってはいるが、相手がどう感じとるかといったことを全く考えない、逆上させかねないような物言いをする。カーヴェもそのことをよく存じていたが、性格を熟知しているからといって腹を立てない理由にはならない。
こういったもめ事は二人の間でよくあることだった。アルハイゼンの考え方とカーヴェの考え方は正反対で、基本的に合わないのだ。ただ、彼らはつきあいが長いこともあって、この険悪な雰囲気の解決方法を既に見出していた。それは単純に時間を少しおくということで――いつもの感じなら、明日の朝になれば今日の険悪な雰囲気はどこにいったんだというくらい、いつも通りの調子で話すことができるであろう。
「そういえば」立ち去ろうとするカーヴェをアルハイゼンは引き留めた。「今度のドリーへの返済日はまだ先のようだから今言うことではないかもしれないが、ドリーとは表立って会わない方が良い」
カーヴェはリビングの外へ向けた足を止めると、アルハイゼンの方を振り返って不思議そうに見た。なぜ、今月の返済日がまだ先であることについてわかったのだろう。カーヴェはほぼ毎月ドリーに直接会って借金の支払いをしていたが、その日付は月によってバラバラであった。ドリーは商人という職業柄長く拠点を離れることが度々あったし、カーヴェの方も建築現場へおもむくために長期の出張に行くことがしばしばあったからだ。そのため、事前に連絡をとりあって月ごとに会う日付を決めていた。
「なぜ、表立って会わない方がいいんだ?」とカーヴェはひとまず、アルハイゼンがなぜ今月の返済日を知っているのかについてはさておきつつ尋ねた。
「ドリーの邸宅が教令院に没収された件は君も知っているだろう。君が設計して建てた家をだ」
アルハイゼンは彼なりに言葉を選んでいるようで、少しつかえながら言った。
「知っているさ。そのニュースを聞いたとき、教令院は芸術のわからない奴らが多いんだな、とあらためて思ったよ」
そうやって話すカーヴェからは、借金を背負いつつもやっとの思いで完成させた作品が
「その一件でドリーは教令院に目をつけられているからな。君にも影響が及ばないか心配しただけだ」
「心配してくれるのはありがたいけど、その必要はないさ」
「というと?」
「僕は返済時にたしかにドリーと直接会っているけれども、いつも細心の注意を払って、第三者に見られることのないような場所で会っている。僕の仕事はイメージが大事だからね。顧客に不信感を抱かれないよう、借金のことを知られるわけにはいかないから、表立っては会っていないんだ。だから大丈夫だ」
カーヴェはそう言うと、今度こそリビングを出て行った。アルハイゼンはカーヴェが出て行った扉を見つめながら深いため息をついた。
当事者であるはずのカーヴェはずいぶんと楽観視している。でも、それは無理のないことだった。なにしろ、カーヴェは教令院にはっきりと――それこそドリー以上に目をつけられていることを知らなかったからだ。教令院は黒だと確信をもってカーヴェのことをマークしている。このことを言うべきだったか、とアルハイゼンは数分前の自身の言動を反省した。
カーヴェの債権者であるドリーと話をするべきだ、とアルハイゼンが思ったのは、ある休日の午後のことだった。彼女の現在置かれている立場やカーヴェに対してどのような感情を抱いているのかについて知る必要がある。そんな考えが唐突に浮かんできたのだ。
これはアルハイゼンらしからぬことであった。彼は一学者として物事を順序立てて考える癖がある。開始時点で為されるべき問題提起や目的の提示もなしに結論だけ思い浮かぶことなど、彼にとってほとんどありえないことだった。
そういった事情もあり、いつもとは違った方向にアルハイゼンは物事を考え出した。具体的には、『ドリーの現在置かれている立場やカーヴェに対してどのような感情を抱いているのかについて知るために、彼女と話をするべきだ』という結論から、なぜその結論に至ったのかということを考えようとした。
ドリーがどのような人物であるかをアルハイゼンは知っていた。正確にいうと、
そこまで考えて、『現在彼がもつ情報だけでは正確なことを判断できるとはいえないから、直接会ってドリーのことを知るべきだと思い、そのような結論を出したのだ』ということにアルハイゼンは気づいた。では、いったい自分はなにを判断したいのか――今度はそのようなことを考える。
答えがどこからか急に湧き出てきたのは、考え出してから数十秒経過したときのことだった。ドリーがカーヴェにとって味方となるのか敵となるのかを判断したい――これこそ、開始時点で提示されるべきだった目的だ。
今までアルハイゼンが聞き及んできた数々の噂からはドリー・サングマハベイという人物はスメールで最も成功している商人であり、そういった成功している商人にはありがちではあるが、利用できるものは利用する
あらためて考えてみて、とんでもなく食えない人物から大金を借りたもんだな、とアルハイゼンはあきれた。そのせいで、アルハイゼンは
ドリーと実際に会話をどのように運ぶべきかどうかはさておいて、一つ問題があった。ドリーと会うにはどうすればよいのかということだ。
たった一つだけではあるが、これは致命的な問題であった。そもそもアルハイゼンがやりたいと思っていることはドリーに会えないとなにも始まらないのである。話し合いが成功する失敗する以前の話だ。
アルハイゼンは妙案が思い浮かばないかと、リビングルームの壁にかかっているカレンダーを眺めつつ考え出した。少々距離があるため、はっきりとは見えないが――アルハイゼンは日常生活には支障のない程度ではあるが、若干、遠くの物が見づらかったのだ――彼の頭の中にはカレンダーに印がついていた日付が浮かび上がってきていた。この印はアルハイゼンがつけたものではない。アルハイゼンではないとすると、この家のカレンダーに印をつけられる人物など他に一名しか考えられないので、印をつけたのは
印は十中八九、つけた本人であるカーヴェの返済日を示していた。アルハイゼンはカーヴェから印の意味を聞いたこともないし、尋ねてみたこともあるわけではないが、彼の行動からそうあたりをつけていた。
カーヴェは必ず月に二回は暝彩鳥を使って手紙か書類のやり取りをドリーとしている。やり取りをする日にはある一定の規則があった。
まずは、月始め。どんなに仕事が忙しいときでも、月が変わって三日以内には連絡をするようにしているらしかった。というのも徹夜明けにも関わらず、慌てて書簡を送ろうとしているカーヴェと以前遭遇したことがあったため、アルハイゼンはそう予想していた。
そしてもう一回は、ドリーに会う日の三日前だ。これは平均して、という意味でいくらか――具体的には一日か二日程度は前後する場合もあった。とはいえ、そのずれは一定の規則に従っているといってもよい誤差の範囲に収まる程度のものだ。
アルハイゼンが『ドリーに会う日の三日前』の規則に気がついたのは、カーヴェとルームシェアをするようになってから一年も経たないうちのことであった。特にこれといってカーヴェがドリーの元に出かけると言っていた日と手紙を出しに行こうとしているのを見かけた日を意識していたわけではないが、ある日ドリーの元へ出かけていったカーヴェを見送ったとき、この規則性が頭の中に浮かび上がってきたのだ。
毎回、彼から出かける日を聞いたり見たりしていたわけではないので、ものの数回で気づいたことになる。これはアルハイゼンの性格ゆえに為し得たことだろう。彼は日々の生活において規則性というものを重要視しており、ある程度のルーティーンに従って生活を送るように常に心がけていた。例えば、起床時間や就寝時間、就寝前に本を読み始める時間は決められた時間があり、これは早すぎても遅すぎてもいけない。アルハイゼンの規則性に従って生活することへの情熱は、ある種の人にとっては常軌を
今月のカレンダーにつけられた印はまだ、今日の日付の先にある。さらにいうと、印がつけられているのは来週の頭で、今から行動を起こすのならばちょうど良いタイミングでもあった。
アルハイゼンは立ち上がると、自身の書斎へ向かって行った。部屋に入ると真っ直ぐ机に向かい、
その日の夜、帰宅したばかりのカーヴェにアルハイゼンは昼間に用意した手紙を渡した。
カーヴェは不思議そうな顔をしながら封筒の表と、ひっくり返して裏までしっかり観察するとアルハイゼンの方を見ながら、「これはなんだ? 君が、あの商人に手紙を書くなんて」と言った。
「見ての通り手紙だ。それをドリーに渡して欲しいんだ。たしか君は来週の頭に彼女と会う予定だろう」
「そんなのは見ればわかるよ。宛名も『ドリー・サングマハベイ 様』になっているし。僕が知りたいのはこの手紙の内容だ。なぜ、彼女に手紙を書く必要があるんだ? まさか彼女になにか頼み事があるのか? 僕から言わせてもらうと、できることならやめておくことをおすすめする」
「そのまさかだ」アルハイゼンはいつも通りの調子で、予め用意しておいた言い訳を話し始めた。「君を見ていれば、リスクがあることはわかる。それを承知の上、頼みたいんだ。どうしても欲しい古書があるからだ。どうすれば入手できるかを考えてはみたが、結論としてドリーに頼むのが一番良い手段ではないかと思っていてな。他の手段は、ドリーに頼むよりもさらにずっと面倒でリスクがあるんだ」
「なるほど」カーヴェは納得したようで、アルハイゼンから渡された白い封筒をていねいにメラック――つまり、彼の鞄にしまい込んだ。「わかった、渡しておく」
アルハイゼンは満足そうにうなずくと、自室の方へ戻ろうとした。そこへ、そういえば、となにかを思い出したかのようなカーヴェの声がかかる。
「なんで、僕が来週の頭にドリーの元へ行くことを知っているんだ?」
アルハイゼンは足を止めると、振り返って手短に言った。
「観察すればわかることだ」