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ネイティブチェック

 ネイティブチェック――翻訳された文章をその言語を母国語とする、または第一言語とする者が確認し、自然な文法や言い回しに修正すること

 午後二時。昼休憩後の眠くなってくるような昼下がり、アルハイゼンたちスメール教令院の書記官が働く執務室へとある訪問者があった。その訪問者はここ最近は毎日のようにきっかりこの時間に訪れてきて、決まって同じ内容のことを尋ねる。
「僕宛ての郵便物は届いていないか?」
 そう言いながら訪問者――カーヴェはアルハイゼンの方へ近づいてくると付け足して、「ヘロンがいないから同僚である君が何か聞いてないかと思って」と言った。
 ヘロンというのは妙論派に属する人物で、アルハイゼンと同じ書記官の役職に就いている。彼は今日はちょうど会議に参加していたため、執務室には不在であった。
「ああ、聞いているよ」アルハイゼンは午前中に同僚からカーヴェが来たら渡すように頼まれていた封筒を自身の机の上から取ると手渡した。「はい、これ」
「ありがとう」
 カーヴェはそう言って封筒を受け取ると、早速封を開けて中身を確認した。数日間ずっと待ち続けていたものなので早く確認したいのだろう。アルハイゼンはその様子を見ていたが、喜びを感じるであろう状況にも関わらず、それに相反して彼の様子はみるみるうちに落胆したものになっていくのが明らかに見てとれた。
 カーヴェは中身に目を通し終えたのか、封筒の中に入っていたものを元通りしまい、ぼんやりと視線をそちらの方へ落としながら一言、「ずっと待っていたのにこんなことってないだろう……」と口にした。
「何か良くないことでも書かれていたのか」
 アルハイゼンは日頃、他人には興味はない質ではあるがさすがに少しは不憫に思えてきたので、彼が置かれている状況の確認のために尋ねた。
「再来週からフォンテーヌで行われる、とあるシンポジウムで発表をしようと論文を書いたんだ」カーヴェは封筒の方にやっていた目線をアルハイゼンの方に向けるとポツポツと話し出した。「フォンテーヌで行われる学会、シンポジウムや、学術紙に提出する論文はだいたいはフォンテーヌ公用語で書くように指定されている。今回僕が発表を行うシンポジウムでも例に漏れずその通りで、僕はフォンテーヌ公用語で論文を執筆した。僕は第一言語がフォンテーヌ公用語じゃないだろ? だからフォンテーヌ人の友人に、フォンテーヌ公用語としておかしい表現はないかの添削を頼んだんだ」
「ネイティブチェックというやつだな」
「そうだ。それで、頼んだはいいがそこからが問題で――最初に決めた期日になっても添削結果が返ってこない。数日待っても返事がなかったから催促の手紙を送ったが、それに対しても返事がなかなか来ない。そしていく日か待ち続け……ようやく今日返事が来たんだ」
 言いながら、カーヴェは手に持った封筒を高い位置まで上げると軽く振った。
「書かれていたのはなんだったと思う? 『急に職場で倒れて数日入院している。君に連絡できる状況ではなく、報告が遅れてしまい申し訳ない。継続してこの先一ヶ月ほど入院させられる予定だ。だからすまないが、ネイティブチェックはできない』と。シンポジウムの開催初日の十日前が発表を行う論文の提出締切日なのに、こんな直前にどうしろっていうんだ。まあ、体調不良で僕に連絡できない状況だったみたいだし、彼に怒りをぶつけるべきではないかもしれないが」
「なるほど」アルハイゼンはカーヴェが置かれている状況を全て把握し、頷いた。「それで君はあと四日でどうするつもりなんだ?」
「ああ、それなんだよ。代わりの人に頼むにしても、身近にフォンテーヌ公用語を第一言語とする学者なんていたかな……」カーヴェは記憶を探るためか考え込むような姿勢になった。
「俺に頼めばいい」
「君にか?」
 カーヴェは驚きを声色に滲ませつつ言った。カーヴェの記憶違いでなければ、アルハイゼンはスメール人で第一言語はスメール公用語のはずだ。
「君はフォンテーヌ人じゃないだろう。君だって知っているとは思うが、ネイティブチェックというのはその言語を母語ないし第一言語にしている人に頼むものなんだ」
「そんなことはわかっている」アルハイゼンは腕を組んで、カーヴェの方を見据えつつ言った。「でも、時間がないのだろう?」
 アルハイゼンの言葉に対しカーヴェは何か反論できないかと、既に生まれていたいくつかの案を目の前でふんぞり返っている彼が納得するであろうレベルにしようと頭の中で熟考した。しかし、しばらくの間考えた結果はそのどれもがアルハイゼンに自身の論文を添削してもらうよりはずっと精度が落ちるであろうというものであり、カーヴェは仕方なしに頷いた。
「君に頼みたい」

 シンポジウム二日目、カーヴェは事前に運営から展開された資料で確認しておいた中で興味のあるテーマの発表を聞いていた。十五分間の論文執筆者による発表とその後の質疑応答時間が終わり、カーヴェは退席しようと立ち上がった。
「カーヴェさん」
 話しかけてきたのは先ほどまでカーヴェが聞いていた論文発表者の青年だった。おそらくカーヴェと同年代であろう。青年はフォンテーヌ人であり、それはシンポジウムの運営が発行した資料に書かれていた彼の経歴から明らかである。
「昨日のあなたの発表、とても興味深い内容でした。そのような視点もあるのかと気づかされましたよ。僕の発表も聞きに来てくださったようで喜ばしく思います」
「ありがとう。あなたの論文もとても興味深いテーマでした。この後じっくり論文を読ませてもらいます。明日の最終日もシンポジウムに参加しますか? 論文を読んで不明点があったら質問したくて」
「僕は今回のシンポジウムで二つ論文を提出しています。明日、もう一つの方の発表があるのでおりますよ。質問あったら遠慮なく言ってください」青年はそう言った。初対面ではあるが、彼の親しみやすい様子には純粋に好感を持てるな、とカーヴェは思った。
「ああ、えっと――僕の論文って読んだりしました?」カーヴェは相手に違和感を抱かれないよう、さりげなく尋ねた。
「ええ、昨日宿に戻ったあと読みましたよ」
「なにか気になる点はありましたか?」
「気になる点?」青年は考えるとしばらくして、そういえばといったふうに話し出した。「仮説Ⅲに添付されていたグラフの読み取り方がわからず……今はあなたの論文が手元にないので後ほど聞いてもよろしいですか?」
「もちろん」カーヴェは頷きつつ、これでは知りたかったことが確認できずじまいだと思い、さらに踏み込んで訊いた。「僕が確認したかったのは論文の表現でおかしなものがなかったかどうかということなのです。僕が普段使用しているのはスメールの言語だからフォンテーヌ公用語はあまり自信がなくて」
「そういうことでしたか」青年はなるほど、と頷いた。「それなら問題ありませんよ。僕はてっきり、フォンテーヌ公用語を第一言語としている方に事前に内容を確認してもらっていたのかと思っていました。そのくらい、生まれてこの方フォンテーヌを出たこともない僕にとっても違和感のないものでした」
 カーヴェはそれを聞き、安堵した。青年に気づかれないくらいに小さく息をはく。
「そうなんです。僕の友人に頼んで添削してもらったんですよ」とカーヴェは言った。
 アルハイゼンの添削によりけっこうな箇所の表現を修正した記憶だが、想像以上に彼の語学力は――それこそ、生まれてからずっとフォンテーヌ在住の者とも遜色ないくらいであるらしい。さすが知論派だ、と思いつつ、急遽、添削を引き受けてくれた彼にお土産くらいお礼に買っていくべきか、とカーヴェはスメールに帰る前にフォンテーヌでするべきことリストの中に『アルハイゼンへ土産を買う』を入れた。
 ここで新たな問題が発生する。カーヴェはフォンテーヌ土産というものを何一つとして知らない。本来なら事前に情報収集すべきだったのだが、論文の仕上がりが期限間近になってしまったこともあり、そんな余裕などなかったのだ。幸いなことに目の前にいる彼はフォンテーヌから出たことがないくらいフォンテーヌ在住歴が長く、フォンテーヌの名物に関してもある程度知っているだろう。
「フォンテーヌのお土産でおすすめのものはあるかい? 是非教えてほしい」とカーヴェは尋ねた。

あとがき

短い話の練習として、特急で移動中に書いた話です。 短い話は難しい……


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