「お客さん、新聞の代金が硬貨一枚分足りないですよ」
リネがフォンテーヌ廷を歩いていると、新聞売りの少年が客である中年の男へ向かってそう話すのが目にとまった。
「足りないだって?」中年の男は立ち去ろうとしていた動きを止めると言い返した。「数え間違いじゃあないのか」
「そんなはずはありません」新聞売りの少年は手のひらに載せたモラを再度数えた。「七、八……ほら、やっぱり一枚足りないです」
リネは彼らの会話を聞いて、これは一波乱起こりそうだと思った。リネは孤児であったということもあって、悪い大人によって騙され酷い目にあったことがこれまでに何度もあった。だから、この新聞を買おうとしている男が、少年に代金をきちんと支払うつもりがないことに気づいていたのだ。
「お兄ちゃん」横で、妹のリネットがリネの服の
「でも……」とリネは言い淀んだ。
「貸してみてくれ」と新聞を買おうとしている男は、新聞売りの少年の手のひらから硬貨を奪い取った。「一、二……九、十。足りているじゃないか」
男は少年に硬貨を返す。その際に何枚かを、自身の袖の中へ潜らせたのをリネは見た。あの男は、少年へ本来の代金より少ない額しか返していないはずだ。リネはそう確信した。
「お客さん、やっぱり足りないです」少年は自身の手のひらへ目を落とした後、再度男の方へ向き直って言った。「それに、これは一度目ではありません。困りますよ。売上金額と売れた新聞の数が一致しない場合、足りない金額の分は僕が補填しないといけないんです。あなたが新聞を買っていく日は、毎回、本来の売上金額より実際、手元にある金額の方が少なくなっているんです」
「言いがかりじゃないか? 大人を揶揄うのはやめておいた方がいいぞ」
脅されても、なおも少年は態度を変えなかった。男は苛立ったように少年の身体を強く押す。少年はその場に倒れ込み、辺りに少年の持っていた硬貨が散らばった。
「俺から新聞代金を巻き上げようとしたんだろう。とんだやつだ」と男は周囲にも聞こえるような大きな声で言い放った。
男の発言を聞いた辺りの通行人たちがざわつき出す。それらの会話のほとんどはリネの耳では聞き取ることができない。リネの近くにいた若い夫婦が、どうやらあの少年が詐欺を働こうとしたらしい、と言ったことだけが耳に入った。違う、彼は悪くないという言葉がリネの中で生まれる。
「ちょっと待ってください」
リネは男に近づくとそう言った。リネットがため息をつくのが、リネの目の端に見える。リネットの気持ちはわかるが、どうしても新聞売りの少年のことを見過ごすことが彼にはできなかった。
「先ほど、あなたは硬貨を消したでしょう」
「消した? そんな、魔法みたいなことがあるか」男はリネの方を向くと苛立ちを全く隠さない、強い口調で言った。
「たしかにおとぎ話に出てくるような魔法ではありません。でも、魔法を使えなくても魔法の
リネはポケットから硬貨を五枚取り出した。そして、目の前にいる男だけではなく、通行人にも見えるように頭の上で掲げたまま辺りを見渡す。周囲の人々の視線が自身に向かっていることが確認できると、リネは床に尻もちをついている少年の手のひらへ大仰な動作で硬貨を渡した。
「さて、何枚あるかな」リネは少年に向かって尋ねた。
「一、二……三枚だ」少年は手のひらを見つめながら、驚いたというように言った。
「残りの二枚はどこにいったでしょう」リネは少年に向かってうなずくと、芝居がかったような口調で声を張り上げた。「正解はここです」
リネは服の袖から硬貨を滑り落とした。その硬貨を右手で受けとめると、再び周囲の人々に向かって見せつける。硬貨はちょうど二枚あった。
周囲の人々が再びざわつき出す。
新聞売りの少年へ突っかかっていた男の近くにいた、上流階級らしき服装の若者が男の右腕を掴んだ。若者が男の腕を下に向けると、複数の硬貨が地面に滑り落ち、音をたてた。
「お兄さん、助かりました。本当にありがとうございます」
周囲の大人たちによって男が連行され、人だかりがなくなった後で、新聞売りの少年はリネに対してそのように礼を言った。
「なんとかなって良かったよ。ああいったタイプの人物には、周囲を味方につけるのが一番だと思ったんだ。結果的にその考えは正解だった。予想が当たったから、作戦がうまくいったよ」
「お礼としてなにかを渡せればよいのですが、お兄さんがもらって喜びそうなものを僕は持ち合わせておらず……どうしましょう」と言いながら、少年は困った様子でジャケットやパンツのポケットの中身を確認し出した。
リネは少年の様子を見て問題ないというようにうなずくと、少年の背後にあった新聞が入った箱を指さした。「じゃあ、その新聞を一部もらえる?」
「そんなものでいいんですか」
少年は背後の箱から新聞を一部取り出してリネに渡した。
リネは新聞を受け取った後、ブーフ・ド・エテの館がある方角へ向かって歩き出した。
「お兄ちゃん、なにか知りたいニュースでもあったの?」とリネットはリネの元に追いつくと、横に並んで歩きながら尋ねた。
「特にないよ。でも、あの場でなにかを貰わないと、かえってあの子自身がすごく申し訳なく思ってしまいそうだったからね。それに、新聞を見て情報収集をするのは、僕たちの任務にも繋がるかもしれないよ。『今日の花言葉占い』とか」
リネは立ち止まると、新聞の一箇所を指さしてリネットに見せた。リネットはリネの示した部分に書かれていた文章を読み上げる。
「今日の花言葉占い。第一位は、一月生まれのあなた。運勢は、レインボーローズ。素敵な出会いがあるでしょう。残念ながら最下位は、二月生まれのあなた。運勢は、ルミドゥースベル。悲しい別れがあるかもしれません――なにこれ。私たちの今日の運勢は悪いみたいね」
「うーん、そうみたいだ」リネはきまりが悪そうに言った。
「ねえ、お兄ちゃん」
「どうしたんだい」
「見て、これ」
リネットは新聞に掲載されたある記事を指さした。リネは記事の見出しに目を通す。『魔術師セサル事故死。彼の正体は怪盗マーテン』とそこには書かれている。
リネはリネットから新聞を奪い取ると、その記事を読み出した。
意味がわからない、とリネは思った。あの優しいマジシャンが、怪盗であるはずがない。リネは記事の内容をすぐには信用できなかった。
任務が終わった後、リネは草が生い茂った地面の上に腰を下ろした。
その日の任務はフォンテーヌ廷の外で行うものだった。遠くにフォンテーヌ廷の外壁が見える。それを眺めながら、リネは朝、フォンテーヌ廷を出発する前に買った新聞を取り出し、読み始めた。
「今日の花言葉占い。二月生まれのあなたは、レインボーローズ。情熱を注ぐことのできるなにかが見つかるでしょう」とリネは新聞に書かれていた今日の占いの結果をつぶやいた。
占いなどリネは信じていなかったが、あのセサルが事故死したという新聞記事を読んだ日の占いだけは信じてしまいたかった。『悲しい別れ』というあの日の占い結果は、セサルのことを指していたのだろう。そうリネは考えていた。
リネはポケットから、セサルが事故死したという記事が載った新聞を取り出した。もう何度も読み返しているから、皺だらけになってしまっている。この記事では、セサルが事故死したという内容の他にも、セサルの正体は怪盗マーテンで、様々な人から盗みを行っていたのだとも書かれていた。にわかに信じ難い話だったが、リネが読んだ新聞は記事の内容に信頼がおける、スチームバード新聞社から発行されたものだ。加えてその日、他社から発行された新聞もいくつか見てみたが、全てにセサルは怪盗マーテンだという内容の記事が書かれていた。そして残念なことに、新聞で挙げられていたセサルが怪盗マーテンだという証拠は、どれも納得がいけるものだった。
それでも、リネはセサルと過ごした数日間を思い返すと、彼が怪盗マーテンだとは思えない。
リネは深いため息をついた。セサルは誰かにはめられたのではないか――そんな考えが浮かんでくる。
「向こうでフレミネが、レインボーローズがたくさん生えている場所を見つけたみたい」いつの間にか、リネットがリネの隣に立っていた。「明日は任務もないし、街でマジックショーをやるんでしょう。ここでマジックに使うお花を調達するのがいいんじゃないかと思ったのだけど」
「レインボーローズ」とリネは言った。
リネットはうなずき、手に持っていた花をリネの前に差し出した。「いつもマジックに使っている花はこれでしょう」
リネはリネットから差し出されたレインボーローズを受け取った。ふと、妹の方を見上げる。彼女はレインボーローズ以外の花も抱えていた。
「それは?」レインボーローズではない、青い花をリネは指さした。
「ああ、これはルミドゥースベル。マジックに使う花は花ならなんでもいいとフレミネは思っていたみたいで、これも摘んでしまったようなの」
「別れ」
「前に見た『今日の花言葉占い』のこと?」
「いや、ルミドゥースベルの花言葉のことだよ」言いながらリネは立ち上がった。「リネット、フレミネにはこのルミドゥースベルが生えていた場所を教えてほしいと聞いてくれないかな。この花を摘んで帰りたいんだ」
「レインボーローズはどうするの?」
「摘まなくていい」
「明日のマジックショーではルミドゥースベルを使うという意味?」リネットが尋ねた。
「そのつもりなんだ」
「なぜ」
リネットの問いに、リネは答えた。「ルミドゥースベルの花言葉は『別れ』だからね。その花言葉がちょうどいいと思ったんだ」