男が目覚めたとき、彼の中には「探さなくてはならない」という感情だけがあった。言葉通り、彼に存在していたのはその感情だけだった。自身の名前やなぜこの場所で寝ているのか、なにひとつ思い出すことができなかった。
もちろん、「探さなくてはいけない」のは
男はその場で身を起こした。男はベッドの上に寝ていたようだ。そのベッドは固く、お世辞にも質のいいものだとはいえない。そのためか全身に痛みを感じる。辺りを見渡すと、男のいる部屋はとてもこじんまりとしていることがわかった。小さめのベッド(それなりに身長のある成人男性なら、脚を伸ばしてちょうど収まるくらいの大きさだった)に、ベッドサイドにあった引き出しつきの収納家具、最低限の服だけが入りそうなワードローブがひとつと、あとは姿見があるだけだ。
男はベッドから降り、姿見の前に立った。ベッドから姿見までは数歩の距離だったが、それでさえも非常に大変なことのように感じる。ひとつ歩を進めるたびに、身体に痛みが走るのだ。これは奇妙だ、と男は思った。ここまでの痛みであるからには、固いベッドで寝ていたからというだけが痛みの原因ではないだろう。男はその原因を探ろうと鏡越しに自身の姿を観察した。
歳は比較的若い。成人したかしていないか、その瀬戸際くらいの年齢だろう。髪の色は赤みのある茶色で、顔だちからいって北の方の出身であるように見える。病人らしく寝巻きを着ていて、さらに襟元からは白い包帯がのぞいている。男は寝巻きのボタンを半分ほど開け、自身の上半身を見た。そのほとんどが包帯に覆われている。肌が露出しているのは肩や首の辺りだけだ。
なるほど、自身が感じていた痛みというのは怪我のせいだったのだろう、と男は合点がいった。これほど広範囲に渡る怪我だ。かなり大きな事故に巻き込まれでもした可能性がある。例えば、荷車のような重量のある乗り物に轢かれただとか、もしくは海難事故にあって身体を岩や船舶の残骸にひどく打ち付けたとか、様々なパターンが考えられる。
「船」と男は呟いた。
今まで気づいていなかったが、男がいた部屋はゆっくりと揺れていた。左右だけではなく、上下にも揺れている。この四方向への揺れが入り交じった特徴的な揺れ方は船であろう。自身のことはなにもわからないのに、なぜだか男にはそのことがはっきりとわかった。
この船はどこに向かっているのだろう、と男は考えた。男がいる部屋には窓がなかったため、外の様子を伺うことができない。つまり、この部屋にいる限り船の行き先はわからない。着替えて船の甲板に出て現在地を確認しようと男は考え、姿見の隣にあったワードローブの扉を開けた。着替えのひとつくらい用意されていてもおかしくないと思ったのだ。
ワードローブの中には赤いシャツとグレーのジャケット、あとはジャケットと同じ色のスラックスがあった。ジャケットとスラックスは組み合わせて着用することを想定したデザインになっていそうだ(いわゆる、制服や祝い事で着る服にありがちなタイプのやつだ)。男はジャケットに触れると、右側の前身頃の裏を見た。胸の辺りにある内ポケットの上側におそらく名前であろう刺繍がほどこされている。
その綴りを見たとき、男の頭の中に浮かんだのは物語に出てくる戦士の名だということだった。たしか演劇のタイトルにもなっている。アヤックスというのが物語上の戦士の名であることを思い出せたとはいえ、もちろん男はなにか自身に関することを思い出したわけではない。「アヤックスは物語に出てくる戦士の名だ」という知識の出処はどこなのか、男はわからなかった。まるで、物語の結末だけ知っていてその結末へに至る過程を知らないときのようだ。なんとも、不思議な感覚だった。
ここまでの状況からいって、男の記憶は完全に失われたのではなく、なんらかの原因で浮上できない状態なのだろう。そうでなければ、「探さなくてはならない」や「アヤックスは物語に出てくる戦士の名だ」などと思ったりはしないはずだ。男――アヤックスはそう結論づけると(十中八九、アヤックスというのは物語の戦士の名だというだけでなく、自身の名でもあるだろうと男は考えていた)、ワードローブにあった服へ着替えた。
スラックスを履き、赤いシャツを着た後にジャケットを羽織る。そして、細々とした装飾品をつけ、服装を完成させていく。赤いストールは首に巻き、赤の仮面は頭の上に乗せる。最後に仕上げとして、アヤックスはベッドサイドの収納家具の上に置いてあった、いわゆる神の目と呼ばれている外付けの魔力器官を腰のベルトにつけた。流れるような動作だった。この動作をアヤックスは何度もやったことがあるのだろう。つまり、先ほど身につけた神の目はアヤックスのもので間違いなさそうだ。
完成した服装をアヤックスは鏡で確認した。シャツやジャケットの袖からスラックスの裾に至るまで、サイズはアヤックスにぴったりだった。装飾品も全てがしっくりくるデザインになっていて(アヤックスの好みだということだ)、これはアヤックスのためにオーダーメイドで作られた服たちであろうことが直感的にわかった。
アヤックスは自身の服装の出来栄えに対して満足そうにうなずいた後、扉を開け部屋から出た。
彼のいた部屋から繋がっていたのは、比較的広さのある部屋だった。数人同時に利用できるテーブルが置いてあり、テーブルの中央には地図が広げてある。なにかの作戦会議に使えそうな部屋だ。
「公子様」テーブルを囲むように置いてあった椅子のうちのひとつに腰かけていた、仮面をつけた女性がアヤックスの方を振り向いた。「お目覚めになられたのですね。お身体の具合はいかがでしょうか」
「ああ、問題ない」
アヤックスは辺りを見渡しながら女性の質問に答えた。
「ここはどこだろうか」
「フォンテーヌ廷近くの水上です。『召使』様が『公子』様を療養させるのにスネージナヤへ送り届けるため、こちらの船を手配くださったのですよ」
アヤックスは考え込んだ。療養とは、この怪我のためであろうか。
「なるほど。だいたい状況は把握したよ。君は看護師かい?」とアヤックスは言った。
「はい」仮面をつけた女性は訝しげな表情でうなずいた。「看護師という表現は、おおむねあっています。私は医学について学び、看護師のような仕事をしていますから。でも、ここファデュイにいる者たちは私のような仕事をする者を『看護師』とは呼んだりしません。『看護師』である前に『兵士』でありますので」
「そうかい」とアヤックスは言った後、話を変えるように「甲板へはどこから出られるかな」と尋ねた。
「あちらの扉から出られます」仮面をつけた女性は奥にある扉を指さした。「それはともかく、先ほどから『公子』様の言動には少々気になる点があります。お部屋にお戻りください。医師を呼んで参りますから。『公子』様は一歩間違えれば命を失っていたであろうというくらいの、お怪我をなさったのです。もしかしたら後遺症のようなものがあるのかもしれません。医師に診てもらって判断してもらわねば」
仮面をつけた女性はそう言ったが、アヤックスは全く気にとめなかった。女性の言ったことは無視して、そのまま甲板へ繋がる扉の方に向かって歩き出す。その様子を見て、女性は立ち上がった。
「『公子』様、どちらへ行かれるのです」
仮面をつけた女性が呼びかけたが、相変わらずアヤックスは彼女の言葉を無視した。そのときのアヤックスには、目覚めたときと同じく「探さなくてはならない」という感情だけがあった。この感情はとりあえずおいておこうと思えるほどのものではなく、アヤックスは仮面をつけた女性の言葉を聞き入れられるような状況になかったのだ。
アヤックスが甲板へ繋がる扉のドアノブに手をかけたところで、さすがに力ずくでもアヤックスを止めるべきだと仮面をつけた女性は思ったのか、「『公子様』を止めてください」と人手を集めようと呼びかけているのが聞こえた。それには構わず、アヤックスは甲板へ通ずる扉を開けた。
甲板の上に出ると、遠くに陸地が見えた。十秒ほど眺め、だんだんと陸地との距離が開いていっていることを確認する。この船は陸地から離れる方向へ動いているのだ。陸地の上にはおそらくフォンテーヌ廷だろうという建物が見えた。
フォンテーヌ廷はとても巨大だった。
今まで見たことのない規模の都市であるというのが、アヤックスの第一印象だ。立ち並ぶ建物を水路らしきものが取り囲むように複数走っており、遠くから見るとひとつの大きな建造物のように見えた。そして不思議なことに、フォンテーヌ廷を見ていると、未練のようなものが湧き上がってくるのをアヤックスは感じた。
「俺にはあそこでやり残したことがある」
アヤックスは呟いた。一歩、また一歩と歩を進めていき、船べりの方へ向かっていく。
「『公子』様」
大声でアヤックスに向かって呼びかけながら、次々に船員たちが集まってくる。
この様子だと今がフォンテーヌ廷へ戻る最後の機会だろう、とアヤックスはようやく周囲の様子に意識を向けてそう思った。ここで船員たちに捕まえられれば、先ほどいた部屋に戻されてしまうだろう。状況を見るに、この船の船員たちはアヤックスにこの船へ留まってほしそうだった。アヤックスの予想ではあるが、スネージナヤにアヤックスを送り届け、傷が完全に癒えるまでそのままスネージナヤでアヤックスが療養することを船員たちは望んでいるのだろう。
アヤックスは船べりから身を乗り出した。下には海が見える。波は穏やかで、もしかしたらこれは海ではなく巨大な湖なのかもしれない。
再び正面を向いて陸地と船の距離をアヤックスは目視で計算した。彼の見立てでは、既に船は陸地からかなり離れている。一般的に、泳いでいくのは少々はばかられるくらいの距離だ。そんな状況ではあったが、アヤックスには陸地まで泳いでいくことができるだろうという確信があった。どこから湧いてきた自信なのかはわからない。だが、たしかにはっきりとそう思えたのだ。
「『公子』様、お部屋にお戻りください」
船員たちがアヤックスの行動を引き止める声に、アヤックスは振り返る。気づけば、既にたくさんの船員たちに彼は囲まれていた。
逃げ場はもう海の方向しかない。アヤックスは腰の神の目に触れた。
迷うことはなかった。彼は船べりに足をかけ、一瞬の隙も見せることなく一直線に、海へ向かって飛び込んだ。
「今日、君たちを呼び出したのは新たに任務を頼むためだ」
フォンテーヌ廷ヴァザーリ回廊に位置するブーフ・ド・エテの館にある『お父様』の執務室にて、アルレッキーノは三人の子供たちを目の前にして口を開いた。
三人の子供――リネ、リネット、フレミネは机を挟んだ向こう側に座るアルレッキーノの言葉に姿勢を正した。自然と身体に力が入る。彼らはブーフ・ド・エテの館で暮らす孤児であり、孤児院の長である『お父様』――つまりアルレッキーノに対して尊敬の念を抱いていたから、そのような態度をとったのだ。
アルレッキーノは子供たちが自身の言葉を聞き入れる態勢になっているのを確認すると続けた。
「先日、フォンテーヌからスネージナヤに向けて出港した船がある。この船はとある任務を受けていた。ファデュイ執行官第十一位『公子』タルタリヤをスネージナヤへ送り届けることだ。昨日、この船で事件が起きた。いや、状況を聞くに、事故といった方がよいのかもしれないな」
アルレッキーノは一旦そこで言葉を区切ると、目の前にある机の隅に積み上げられていた書類の中から一枚の紙を引っ張り出した。紙は真ん中で二つに折りたたまれている。アルレッキーノは二つ折りになっていたそれを広げると、机の上に置いた。紙に描かれていたのはフォンテーヌの地図であった。
「事故というのは、護送中の『公子』タルタリヤが水中へ転落したということだ。引き上げようにも、しばらく経っても『公子』は浮かび上がってこず、数名で水中に潜って捜索したが、『公子』が転落した付近では彼を発見できなかったそうだ。位置はだいたいこの辺りだ」
アルレッキーノはフォンテーヌ廷から近くの水域を指さした。
「『公子』が水中に転落したとき、何人かがその様子を目撃している。転落する直前の行動も調査済みだ。それらの証言を整理し、時系列に従って彼の行動を話していこう。まず、『公子』は意識を取り戻し、あてがわれていた船室から出てきた後、彼の看護を担当していた者と会話をした。その者は、いつもは言わないような内容のことを『公子』が言っていたと話している。さらに、『公子』へ部屋に戻るよう促したが、彼はそれを無視してなにかへ引き寄せられるかのように甲板へ通じる扉に向かったそうだ。様子がおかしいと思った看護担当者は大声で応援を呼び、複数人で『公子』を取り囲んだが、彼は唯一囲まれていなかった海に落ちたそうだ。君たちには、『公子』を探す任務を頼みたいと思っている」
そこまで言うと、アルレッキーノは子供たちの方を見上げた。これは合図だ。「なにか疑問に思うことや不明な点はあるか」と『お父様』は問うている。
最初に手を挙げたのはリネだった。アルレッキーノは視線をリネの方へやり、発言を促した。
「『公子』様の看護を担当していた人は、いつもは言わないようなことを『公子』様が言っていたと証言しているようですが、具体的にはどんな内容だったのでしょうか」
「看護師」アルレッキーノは身体の前で組んだ手を机の上に乗せた。「『公子』は彼女のことをそう呼んだそうだ」
「『公子』様が看護担当者のことを看護師と言ったのは、彼らの間に面識がなかったからではないでしょうか」とフレミネが言った。
「それはおかしな話よ」アルレッキーノがなにかを言う前にリネットが発言した。「ファデュイには
「ああ、リネットの指摘通りだ。それで、看護担当者は『公子』に対して違和感を持ったそうだ」
アルレッキーノはそう言った後、再び子供たちの方を見上げた。次に手を挙げたのはフレミネだった。
「『公子』様が水へ転落した際の状況を再度確認させてください。『公子』様は溺れたというわけではないのですよね?」
「彼が溺れたことは考えにくいな」アルレッキーノはフレミネの質問に答えた。「『公子』は神の目を所持した状態で水に落ちたそうだ。フォンテーヌの水中では異海源水の祝福が働く。これは知ってのとおり、神の目を持つ者に限りなく長い時間の潜水を可能とさせるものだ」
「だとすると、純粋に水のせいで呼吸ができなくなっている状態ではなさそうですね。水以外の要因で呼吸ができなくなっている可能性は存在しますが」とリネが言った。
「ぼくもそう思う」フレミネはリネの方を見ながら言った後、再びアルレッキーノの方へ向き直った。「であるならば、ある程度行き先に予想をつけることができます」
「ほう」アルレッキーノは感嘆の声を上げた。「続けろ」
「『公子』様が船から落ちたこの地点は、今の季節だとこちらの方向に向かってかなり強い水の流れがあります」フレミネは一歩、机の方へ近づくと、フォンテーヌ廷がある陸からその向かいにある陸の方へ向かって地図を指でなぞった。ブロー地区のポワソン町上部の沿岸で指は止まる。「余程のことがない限り、普通は水の流れに乗って移動するでしょう。その際、行きつくのはだいたいこの辺りになります。それから、目的地に向かって移動を開始するはずです」
「この辺りは、いくつか別荘として使われている建物があったはずよ」リネットは地図をのぞき込んでフレミネがさす場所を見ながら言った。「もしかしたら、目撃者がいるかもしれない」
「ならば、まずはこの辺りを調査してみるのがいいだろうね。目撃者がいなかったとしても、なにか手がかりが残っている可能性もある」リネがフレミネとリネットの顔を見ながら言った。
子供たちが作戦を練るのを横で聞いていたアルレッキーノは、満足そうにうなずいた。
「探し方は君たちに任せよう。この任務についてだが、『公子』本人が見つからなくてもよいと私は考えている。とにかく、なにかしらの手がかりがひとつでも見つかれば問題ない。このような仕事は、私よりも君たちの方が適任だろう。だが、場合によっては君たちには手に負えない、私の方が適任である仕事が発生するかもしれない。その場合は、すぐ報告するように」
リネたち三人はアルレッキーノが言ったことに対し、恐れを抱いた。
アルレッキーノはリネたちが自身に恐怖を感じていることについて、気づいていないようだった。あるいは、気にしていなかったのかもしれない。
「他に聞きたいことはないかね?」
微笑みながらアルレッキーノは尋ねた。リネたちがうなずいたのを確認すると、脚を組んで威厳のある声で言う。
「では、頼んだよ」
三人の子供たちはアルレッキーノに向かって深く一礼した。