リネやフレミネと分かれて、リネットは貸別荘にある地下の貯蔵庫の床を確認していた。ここではなにもなかったのだと見せかけるため、髪の毛一本も見逃さないよう痕跡となるものを全て袋に集めていく。とても気が遠くなるような作業だった。作業開始してからそれほど時間が経っていないのにも関わらず、作業に飽きてしまったくらいだ。しかし、さぼるにもアトーズやルージュ側の人間であるロッキーも共に貯蔵庫で痕跡を集める作業をしている。リネットは実際に実行へ移すことはできずにいた。
そのような事情もあり、黙々と作業を続けたあるときのことだった。リネットは地上にある部屋の扉を何者かが叩いているような音を聞いたような気がして、作業の手を止めた。地上へ繋がる階段の方を見上げ、耳をすませる。
「どうかしたのですか」とリネットの異変に気づいたロッキーが尋ねた。
「上から音が聞こえるの」リネットはロッキーの方を見ながら小声で答えた。「なにかを叩く音よ。音の響きからいって、木製でそれなりの厚みのあるものを叩いている。おそらく、玄関扉を誰かが叩いているのだと思う」
「私たちの仲間でないことはたしかです」ロッキーは黙って、階上の音を聞き取ろうとするかのように目を閉じる。数秒経ってから目を開けると、なにかを考え込むような表情で言った。「あなたの言う通りです。こんなときに訪問客があるとは、困りましたね」
「すみません、どなたかいらっしゃいませんか」
訪問客が、そう言うのが微かに聞こえてくる。ロッキーはリネットの方を見るた。
「訪問客が諦めるまで、ここでじっとしていましょう。この部屋は地下に位置していますから、よほど大きな音をたてなければ地上まで音が聞こえるということはないでしょう。訪問客が私たちの存在に気づくことはないはずです。訪問してきた人物が何者かはわかりませんが、このタイミングで顔を誰かに見られるのが一番まずい。私たちは今、必死になって痕跡を消そうとしていますが、それが全て台無しになってしまいます。それだけは避けねばなりません」
リネットもロッキーの意見には同感だった。うなずこうと首を動かそうとする。だが、リネットはさらなる音を聞き取ったため、うなずくのを止めた。
「誰かが上の部屋を歩いている音が聞こえる。この貸別荘には私とあなたの他に、あなたたちがアヤックスと呼んでいる人物がいたよね。彼は今回の件についてどこまで知っているの?」
「なにも」ロッキーは言った。みるみるうちに顔色が悪くなる。「ああ、まずいです」
ロッキーは慌てて階段に向かうと、一段飛ばしで階段を駆け上がった。リネットも急いで後を追う。タルタリヤが訪問客を招き入れてしまったら一大事だ。現在のタルタリヤには記憶が一切なく、ファデュイ執行官だったときにあったような、するどい勘もないだろう。そして、ロッキーいわく、タルタリヤにはブノワ殺害計画についてなにも話していないらしい。つまり、タルタリヤはロッキーたちが共謀して人を殺したことなど知らないのだ。それどころか、ロッキーたちのことを極めて善良な人たちだと思っているくらいだろう。そんな人物は、わざと居留守を使って不在であるかのようには見せかけないはずだ。早く止めねばなるまい。
「ルージュ、ロッキー、いないのか?」タルタリヤがそう口にするのが聞こえる。どうやら、家に誰かいないか探しているようだ。再度、扉を叩く音がして、タルタリヤは外にまで聞こえるような大きい声で呼びかけた。「待ってくれ、今行くよ」
扉の蝶番のきしむ音がした。残念なことに、開いた扉はロッキーがタルタリヤを止めるために開けたものではなかった。リネットがそのことを認識したのは、ちょうど階段を上りきったところで、隣の部屋へ通ずる扉のノブに手をかけたまま困り果てた様子のロッキーを見たからだった。どうすべきかリネットが考えあぐねていると、訪問客らしき人物の声が聞こえてくる。
「朝早くから申し訳ない。私は警察隊に所属する者だ。最近、ここら辺で空き巣が出ていてな。見回りがてら、情報収集をしているんだ。なにか知っていることはあるかね?」
訪問客は警察隊員らしかった。だが、口ぶりからいってブノワの行方を探しているわけではないらしい。彼女は(リネットのいる位置から姿は見えなかったが、声の感じからいって女性だった)、今言った通りの理由でここを訪れている。リネットはこういったことを見分けるのに自信があった。そんなリネットの感覚が、彼女は嘘をついていないと言っている。
リネットは靴音をたてないよう、ロッキーがいる扉の近くまで行くと、タルタリヤと警察隊の会話に耳をそばだてた。
「知らないな。どこの家であったんだい?」とタルタリヤが言った。
「この家から二軒隣だ。空き巣が入った形跡を見つけたのがちょうど昨日の今くらいの時間で、掃除をしに来た別荘の管理人が気づいたことにより警察隊へ通報があった。ここは別荘地で、家と家の距離が離れている。なにも気づかないのにも無理はないな。情報提供ありがとう。協力に感謝する――そうだ」
話が終わるかのように思われたが、警察隊員はなにかを思い出したというように続けた。
「最近、この付近で水難事故が多発している。事故にあったほとんどが、ここら辺の貸別荘に滞在していた者たちだ。泳いでいる最中に溺れることが多く、死者も出ている。君も気をつけるように」
「わかった。他の人にも気をつけるよう言っておくよ」
「他の人?」
「ここには俺の他にも滞在している人がいるから、その人たちに話しておくという意味だ」
「なるほど」警察隊員は納得したように言った。「ぜひそうしてもらいたい。君よりも、その人たちの方が気をつけるべきかもしれないからね」
「ああ、これのこと?」とタルタリヤが言った後、硬いもの同士の擦れる音が聞こえる。「たしかにこれ――神の目というのだっけ――を持っていれば、溺れ死ぬことはないかもしれないな。現に、俺は船から水の中へ落ちたけれどもこうして生きているからね」
「船から落ちた? それは水難事故にあったということだろうか」警察隊員は怪訝そうに言った。
「事故とは少し違うかもしれないな。俺が水中へ落ちたのはそうしたいという意志があったからね。そういうことってあるだろう?」
「残念ながら、私にはないかな。その、船から落ちたときの詳細を聞いてもよいだろうか」
「もちろん」タルタリヤは問題ないという調子で言った。「といっても、詳しいことは俺にもわからない。俺はここ数日の記憶しかなくてね。いわゆる、記憶喪失っていうやつだ。あるとき、目が覚めたら船の上にいて、その時点で俺は以前にあったことをなにも思い出せなかった。自分の名前も、どんな職業に就いていたのかも一切ね。唯一覚えていたのは、フォンテーヌで探さなければならないものがあるということだけだった。だが、実際になにを探そうとしていたのかは覚えていない。その船はフォンテーヌ廷のある陸地から離れていっているように見えたから、船が遠くにいってしまったら探しものを探すことができなくなってしまうと俺は思った。だから、俺はフォンテーヌ廷へ戻ろうと、慌てて航行中の船から飛び降りたんだ。船から飛び降りた後は泳いで近くの陸地まで行き、さまよっていると、この別荘に滞在中の人たちから声をかけられて寝床を提供してもらった。そんな感じだ」
「ちょっと待ってくれ、今の話をメモさせてほしい」警察隊員が言った。衣服が擦れる音(おそらく手帳かノートを取り出したのだろう)がした後、なにかを書きつけるような音がする。「それで、君を助けてくれた人はどこかに君のことを報告したのかな。警察隊や――私の知る限りではそのようなことを聞いてはいないが――新聞社とか、要するに記憶を失う前の君を知る人物を探し出すために、なにかをしたのだろうかということだ」
「それはよくわからないけれども、俺のことを探しにきた人たちはいる」
「その人たちはどのような人物だ?」
「見てもらった方が早いよ」
タルタリヤがそう言うと、歩く靴音が聞こえてくる。リネットから彼の姿は見えないが、足音はちょうどリネットとロッキーがいる扉の前で止まった。目の前の扉が二回軽く叩かれる。
「ちょっといいかい。警察隊の人が来ていて、色々俺について聞かれていてね。こっちに来て説明してほしいんだ」
リネットから見て、ロッキーは戸惑っているように見えた。ロッキーは扉をゆっくりと開ける。リネットもタルタリヤの行動には疑問を抱いていた。いつから、タルタリヤはリネットの目の前にある扉の辺りに人がいることに気づいていたのだろうか。
「どうも」ロッキーは隣の部屋に入ると、玄関扉のところにいる警察隊員へ向かって軽く挨拶をした。
「彼がそうなのかな」と警察隊員は言った。
「いや、彼は俺を保護してくれた人たちのうちのひとりだ。探しに来たのは彼女だ」と言いながら、タルタリヤはロッキーの後ろにいるリネットのことを手で指し示す。
「子供じゃないか」警察隊員はそう言った数秒後、なにかを思い出したようにあっと声を上げた。「君は、リネというマジシャンのアシスタントではなかっただろうか? 公演のポスターや、スチームバード新聞の記事で見たことがある」
リネットはうなずいた。「ええそうよ。この人のことは、彼のことを知る、ある人からの頼みで探していたの」
「彼のことを知る、ある人?」と警察隊員は疑問に思ったのかリネットの言ったことを繰り返す。
「そうそう、この子が言うにはファデュイの執行官が俺のことを探しているらしい。その執行官に頼まれて、この子は俺のことを探していたみたいでね。なんでも、俺もファデュイ執行官のうちのひとりで、それで執行官という身分にある人が動いているようなんだ」
世間話でもするかのように軽く言ったタルタリヤに対し、警察隊員は「なんだって」と驚きの声を上げた。なにかを考え込むようにタルタリヤの顔をじっくり見つめる。そして、しばらく経った後、「ああ」と合点がいったような声を出した。
「思い出したよ。前にスネージナヤの執行官が裁判にかけられたことがあったが、そのとき被告人だった執行官だろう。ヌヴィレットさんと諭旨裁定カーディナルの判決が初めて一致しなかったときのことだ。そちらの方の印象が強かったせいか、今まで気づかなかったよ。それならば、問題ないね。時間をとらせてしまって申し訳ない」
「もしかして、私のことを疑っていたの?」とリネットは少し苛立ちを感じながら言った。
「ごめんね、これが私たちの仕事なんだ。記憶喪失の人は過去のことを覚えていないだろう。だから、悪い人が騙して、犯罪に利用するため連れていくということもあるかもしれない。でも、今回の場合は違ったようだ。君はアルレッキーノさんからの頼みで彼を探していたんじゃないかい? 君がブーフ・ド・エテの館に住む孤児であるという噂を聞いたことがあるし、ブーフ・ド・エテの館の所有者がアルレッキーノさんで、彼女がファデュイ執行官であることは警察隊員として把握している」
「ええ、あっている」
「なるほど、やっぱりそういうことだったんだね」警察隊員はリネットがうなずいたのを見ると、納得したように言った。そして、もう聞きたいことはなかったのかこの場を立ち去ろうと動き出した。「それでは」
「そうだ」
急に、警察隊員を引き止めるような声をタルタリヤが上げた。警察隊員は動き出していた足を止め、タルタリヤの方を振り返る。
「なにか、言い忘れたことでもあったかい?」
「そうなんだ。昨日、向こうの方で泳いでいた人を見たことを思い出してね。しかも、あれは酒を飲んでいそうな雰囲気だった」タルタリヤは、ブノワの死体がある高台とは反対側を指さした。「ここら辺に泊まっているのならば、今日も遊んでいるかもしれない。飲酒した状態で泳いだりだとかでね。注意した方がいいのかもしれないと思って、ちょっと言ってみたんだ」
「情報ありがとう。聞き込みがてら、注意するよう言ってくるよ」
警察隊員は右の拳を胸の前に当てた後、下ろした。フォンテーヌの警察隊式の敬礼だ。「それでは」と彼女は最後に言うと、タルタリヤがさした方向へ去っていった。
リネットは去っていく警察隊員の背中を眺めながら、ここら辺で泳いでいた人などいただろうかと考えた。昨日、リネットたちはこの辺りでタルタリヤの痕跡を探すべく調査をしていた。フレミネにいたっては、水の中に潜って調査していた。けれども、リネ、リネット、フレミネの全員がルージュに会うまで誰とも遭遇していないはずだ。そうでなければ、別荘を訪れて聞き込みをしようだなんて話は出てこない。
「さあ、早くここを出発する準備をしよう」タルタリヤは場の雰囲気を変えるように明るい調子で言った。「あとの二人はどうしたんだい?」
「あそこ」
リネットはそう言うと、近くの高台の方を指さした。リネとフレミネがアトーズとルージュへ続くようにして、こちらへ向かって歩いてくるのが見える。
「向こう側で彼らはなにをしていたんだい」とタルタリヤが尋ねた。
リネットはどう答えるべきかと口をつぐんだ。正直に言うわけにもいかないし、どう誤魔化せばよいのか検討もつかない。しばらくの間リネットが黙っていると、ロッキーが横から言った。
「本当に、あなたはなにも知らないんですよね?」
「なにも」タルタリヤははっきりとした口調で言った。「ひょっとして、詳細は聞かない方がいい感じかな」
「そうしてもらえると助かります。あなたとは今日でお別れですから、なにも知らない方がいい」
ロッキーはそう言うと、こちらにやってくる人影を眺めた。リネットはなんとなくロッキーの口調に違和感を感じとって、彼のことを見上げた。ロッキーの表情は、どこか納得がいかないとでもいうようなものに見える。だが、そう思ったのは一瞬のことで、すぐにいつもどおりの表情に戻ると四人を迎え入れたのだった。
隠蔽工作を終えた子供たちは約束通り解放された。地下の貯蔵庫で殺害現場の隠蔽工作に手を貸すよう要求されるまでとは打って変わって、あっさりと、まるで友人同士の食事会がおひらきとなったときのような自然な別れ方だった。
そんなわけで、一番対処に困ったのはブーフ・ド・エテの館へ戻る道中、タルタリヤに「早朝から出かけていたようだけど、なにをしていたんだ?」と尋ねられたときだった。
「魚釣りです」リネはよい印象を与える笑みを顔に浮かべながら言った。「ルージュさんの友人が、魚釣りが上手であるという話を昨日聞いたでしょう。その方が釣りへ誘うため早朝に貸別荘を訪れたんです。それがちょうど僕とフレミネの目が覚めていたときで、僕たちは頼み込んで同行させてもらったんですよ。釣りが上手くなれば野営時の食料に困らなくなるかもしれないな、と思いましたから。リネットはまだ寝ていたので誘わなかったんです」
「それが、あまり聞かれたくない話なんだ?」とタルタリヤがすかさず尋ねた。
リネは少し考え込んだ後、言った。「ああ、そういうことですか。そうですね――色々あるので、できれば詳細を話したくないです。ルージュさんやルージュさんのご友人にも口止めされていますから」
「わかった、それなら話さなくて大丈夫だよ。無理矢理、聞き出したいわけではないんだ。リネットは俺が起きて来るまでなにをしていたんだい?」
「私は、お兄ちゃんとフレミネが魚釣りに行ってから少し後で目が覚めたんだと思います。私が起きたとき、二人とも少し前に出かけたとロッキーさんから聞いたから、たぶんそうだと考えています。かといって、後を追って追いつけないくらいには時間が経っていまたし、どうしようもないから、ロッキーさんの朝食の準備を手伝うことにしたんです。ほら、ちょうど警察隊のお姉さんが訪ねてきたときにすぐ玄関扉を開けることができませんでしたよね。あの家、地下に貯蔵庫があるんですが、ちょうどそのときは貯蔵庫に食材を取りにいっていて、お客さんがきていたことに気づかなかったんです」
「なるほどね」タルタリヤは子供たちの顔を順番に見た後、納得したようにうなずいた。「ところで話は変わるけれども、俺はこれから、君たちに俺を探すよう言ったのだというファデュイ執行官の『召使』と会うことになるのかな」
「そうです」とリネが答えた。
「なにを話せばよいのだろうか。ほら、俺は向こうを知らないけど、向こうは俺を知っているんだろう。気まずいじゃないか」
「安心してください、『公子』様」リネは歩きつつ、タルタリヤの方を見上げた。「最初に、報告も兼ねて『公子』様の状況を僕から『お父様』に説明します。その後、なにか『お父様』の方から質問されるでしょうから、それに答えてもらえば大丈夫です。質問の答えがよくわからない場合は、わからないと言ってかまいません。これなら問題ないでしょう?」
「ああ、それなら安心だ」
タルタリヤが答えると同時に、子供たちが足を止めた。
「つきました」リネは目の前にある建物を指さした。「あれが、ブーフ・ド・エテの館――僕たちの家です」
ブーフ・ド・エテの館の『お父様』の執務室で、リネからの報告を聞いたアルレッキーノの第一声は「なるほど」だった。
アルレッキーノは机を挟んで椅子に座った位置からタルタリヤのことを観察するように眺めつつ、続けて言った。「私としては、しばらくの間ここで療養することを提案したいのだがどうだろうか。君が負っている傷は癒えていないし、加えて記憶を失っている状況だ。スネージナヤに戻ったところで、その状態ではなにもできないだろう。単純に療養することだけが目的なのならば、場所はどこでもよいだろうし、わざわざスネージナヤへ帰る必要もない」
「俺としても、そちらの方がありがたいよ。どうやら、俺はフォンテーヌに探しものがあるらしいしね」とタルタリヤはアルレッキーノの提案に安堵したような表情を見せながら言った。
「探しもの?」
「そうだ。その探しものがどんなものかはわからない。けれども、探しものがあるということは、はっきりとわかるんだ」
「ふむ。それが君に残っている唯一の記憶かな」アルレッキーノはそう言うと、その場に立ち上がった。「リネ、リネット、彼がここへ滞在する間に使う部屋を用意してほしい。二階にある客間のひとつを使ってかまわない。フレミネ、君は彼の服を店で買ってきてほしい。この館を出入りしても浮かないようなものを選ぶように。代金はここから支払ってくれたまえ」
アルレッキーノは、机の引き出しから麻でできた袋を取り出すと机の上に置いた。中身はモラが入っているのか、金属同士の擦れる音がする。
「わかりました、『お父様』」
フレミネはそう言うと、机の上の麻袋を手に取った。一礼して執務室を出ていく。リネとリネットも同様に一礼すると、フレミネの後を追うように執務室を退出した。
「あの子たちが戻ってくるまで、俺はどうすればよいのかな」
執務室にアルレッキーノと二人きりになったタルタリヤは、子供たちが先ほど出ていった扉をちらりと見た後に尋ねた。彼は、自分もこの場を離れたいと見えるように、扉の方へ視線をやったのだ。
「君にはもう少し聞きたいことがある。スネージナヤへ君についての報告書を送らねばならないからね。それには少々情報が足りないのだ。まあ、そう堅い話ではない。お茶でも飲みながら話すとしよう。そこに座るといい」
アルレッキーノは、執務室にあるソファを指さした。タルタリヤはうなずき、ソファに腰かける。アルレッキーノは壁際まで行き、壁に沿って置いてあった棚の上の、簡易的な湯沸かし器の電源を入れた。
「今のところ、思い出せたこともないのかね」アルレッキーノは棚からカップを取り出しながら言った。「仕事のことでもなくていい。例えば、家族のことや故郷のこと、好きなことなんかでもいい」
「特にないかな」とタルタリヤは言った。
「本当に?」アルレッキーノはカップを湯沸かし器の隣に置くと、タルタリヤの方を向いた。棚に寄りかかりながら続けて言う。「では、君に関することで君自身が聞きたいと思っていることはないかな。私に答えられることなら答えよう。なに、君とは同僚なんだ。君について知っていることも多い」
「さっき君が言っていた聞きかったことって、こういうことだったのかい?」タルタリヤは警戒心を露にしながら言った。「君にとっては違うかもしれないが、俺にとって君とは実質、初対面だ。そうやって根ほり葉ほり聞こうとでもいうような態度をとられるといい気分がしない」
「そうか、ならばはっきり言おう」アルレッキーノはそう言うと棚から離れ、タルタリヤの方へ少しずつ歩み寄った。「本当に、
アルレッキーノはタルタリヤから二メートルくらいの位置で立ち止まると、じっとタルタリヤの方を見た。タルタリヤもソファからアルレッキーノのことを見上げる。二人は牽制し合うかのようにお互いを睨み合った。数十秒間その状態が続いた後、タルタリヤは観念したかのように大きくため息をついた。
「君を騙しとおすのは無理そうだ。正直に話すよ。思い出せたことは全部だ。おそらくね」
「いつ思い出した?」
「リネから、俺についての話を聞いた辺りからかな。君が面倒を見ている子供たちを騙していたのは申し訳ないと思っているけれど、仕方のないことだったんだということをわかってほしい。あそこには、子供たちの他にもルージュとロッキーがいたし、それに俺には、本当にフォンテーヌでやり残したことがあったからね。記憶を取り戻しています、と言ったら、すぐにスネージナヤへ送られてしまうんじゃないかと思ったから言えなかったんだ」
「なるほど、君らしいな」アルレッキーノは呆れたような口調で言った。「それで、やり残したことというのは?」
タルタリヤはソファから立ち上がると、真剣な面持ちでアルレッキーノのことを見た。
「俺の師匠――スカークを探し出すことだ」