暗闇の中ティルザードは走っていた。月の明かりだけを頼りに、前方が走り抜けるのに邪魔にはならない地形になっていることを確認する。人生のうちほとんどをスメールシティにて過ごしてきた彼にとっては今現在走っているような砂漠の、水分が少しも含まれていないような砂でできた地面の上は走りにくい。だから、足をとられないよう念入りに確認する必要があるのだ。
ティルザードはスメールシティ在住の、ごく普通のありふれた学者であった。しかし、訳あって夜にスメールシティから遠く離れた砂漠地帯の乾ききった砂の上を走っていた。
まず、彼が砂漠地方に再び足を踏み入れた理由は、研究調査のためだった。
一回目の砂漠での研究調査で、ティルザードはひどく大変な目にあっていた。しかし、そのときは優秀な傭兵や冒険者たちを雇っていたため様々なトラブルに見舞われつつも、彼自身が命を失うことはなかった。自身というのは雇っていた傭兵の中に犠牲が出てしまったからだ。
犠牲を出しつつもティルザードはなんとか無事に調査を終え、予定より数日遅れてスメールシティに帰還した。そのため、ティルザードは現在、二回目の砂漠を訪れる機会を得ることができている。一回目のときに命を落としていたのならば、二回目はないはずだから。犠牲となってしまった傭兵――ジェブライラには感謝をすべきなのだろう。彼のおかげでティルザードは今も生きて研究を続けられているのだ。
今回もティルザードは傭兵を雇っていた。砂漠での任務の経験が豊富にあって、砂漠の探索に慣れている者たちだ。彼らがスメールシティを出発したのは四日前で、道中は何事も起こることなく順調だった。雨林を抜け、砂漠地帯を進みはじめて初日の今日、傭兵たちのリーダーである男の指示に従って一行は野営の準備を始めた。
一行はテントを張り終えると、食事をとった。ここ四日間の夜はいつもこんな感じだ。今までと違ったのは、辺りが砂漠ということもあり、暖をとるために温めたお湯を使ってコーヒーをいれたことだった。砂漠の夜は冷えるので温かい飲み物をとるのは欠かせないことなのだ。そして、彼らが何者かの襲撃を受けたのはそんなときだった。
「敵襲だ」
野営地全体にとある傭兵の声が響き渡る。ティルザードの記憶違いでなければ、この声の主は見張りをしていた傭兵のものではなかったか。ティルザードはすぐにその場に立ち上がった。辺りを見渡す。周りにいた傭兵たちは急いで武器をとりあげ、見張りの声がした方へ走っていく。何人もの傭兵たちがティルザードのそばから走り去っていくのを見て、ティルザードはどこか他人事のように、すぐにこの騒ぎはおさまるだろうと思った。以前の研究調査の際にも傭兵や冒険者のおかげで数々の危険を乗り越えられたのだし、今回雇っている傭兵たちは砂漠での活動経験が豊富にある者たちだ。心配する必要はないだろう。彼はその場に腰を下ろそうとした。
騒ぎが起こる前からティルザードがいた付近に座っていた、まだこの場を離れていなかった傭兵はそのようなティルザードの様子を見やると「危ないので、安全が確認できるまでは隠れていてください」と注意した。注意を聞き、ティルザードは腰を下ろそうという動作を慌ててやめる。座るために途中まで腰を動かしていた状態から立ち上がると、この状況で座ろうとなどしていないといったふうに何事もない顔で、傭兵の顔をじっと見つめた。傭兵はティルザードの行動に対してそのとおりだというかのように小さくうなずいた後、「早く」と口にした。ティルザードはその言葉に従ってテントの裏に身を潜めた。
傭兵はティルザードが身を隠したことを確認すると、「騒ぎが落ち着くまでそこから決して動かないように」と再度念入りに注意をした。ティルザードは了解したという意味を示すためにうなずく。その後、傭兵は他の傭兵たちが走っていったのと同じ方向へ走り去っていった。
ティルザードはテントの裏で身体を動かさないよう気をつけながら、襲撃者を片付けた傭兵たちが戻ってくるのを待ち続けた。
あるとき、傭兵たちが向かった方からする音がだんだんと大きくなっているように感じられてきて、ティルザードは傭兵たちが走り去ってどれほど時間が経っただろうかと考えた。しばらくの間考えて、おそらくそれほど時間は経っていないはずだと結論づける。そして彼は傭兵たちの状況を把握しようと、その大きな音がどのような種類のものであろうかと耳をすませた。
金属と金属がぶつかるような音――おそらく、武器同士がぶつかる音だろう。複数人の怒鳴り声――傭兵やここを襲ってきた者たちが発する声に違いない。そしてそれらの音に紛れるように、かなり重量のあるものが砂地の上に落ちたような音も聞こえてくる。
その音を聞いたティルザードは音がする方へ耳を向けるのをやめた。なるべくそちらの方へ意識を向けないようにする。ひどく気分が悪かった。あの重量のあるものが落ちた音は、人間が地面へ倒れた音に違いなかった。それも、何も支えようとする力が働くことなく、重力に従って倒れたような音だ。致命傷を受けた傭兵かもしくは襲撃者が自身の身体を支えることができなくなってその場に倒れ込んだのだろう。
戦闘の音がさらに大きくなる。意識をそちらへ向けないようにしても、否が応でも聞こえてしまうくらいの大きさだ。ティルザードはテントの裏から顔を出し、音がする方をうかがった。何回か瞬きをするとだんだんとピントが合ってくる。ティルザードの目は遠くの方で戦闘をしている集団を捉えた。もう一度瞬きをする。先ほどまでより鮮明に戦闘の様子がわかるようになる。
そのとき、彼の目はこちらの方へ向かって一人が走ってきている様子を捉えた。背後にはもうひとつ人影のようなものも見える。ティルザードはテントの裏から出していた顔を咄嗟に引っ込めた。彼の心臓は通常よりも早い速度で鼓動していた。襲撃者がこちらの方にまできた可能性がある。彼は平常心を保とうと大きく深呼吸をした。
ティルザードが息を吐き終えたとき、テントの向こう側から断末魔のような声が聞こえた。続けて成人一人分くらいの重さのものが地面に倒れるような音がする。ティルザードが隠れているテントからそれほど離れていない距離からその音は聞こえてきた。ティルザードは息が詰まりそうになった。想像するのもおぞましいようなことが向こう側で起こっていそうな雰囲気を彼は感じとっていた。彼の中で緊張感が高まる。もし、間違った行動をとってしまったら彼の命は永遠に失われてしまうだろう。彼は自身がとるべき行動を決めるためテントの向こう側の様子を把握しようと、ゆっくり慎重に物音をたてないようにしてテントの裏から再び顔を出した。
そこには、ティルザードには見覚えのない大柄な男がいた。襲撃者の一人に違いない。
「手こずらせやがって」と襲撃者の男は呟いた。「大人しく運んでいたものを渡せば命までは奪われなかったものを」
そう言うと襲撃者の男は足元に倒れていた傭兵を蹴った。倒れていた傭兵は、うつ伏せのような体勢から仰向けのような体勢になり、ティルザードがいる位置からも顔がわかるようになる。その倒れていた人物はつい先ほど、ティルザードに対し隠れるように言っていた傭兵であった。彼は蹴られたにも関わらず微動だにしない。地面の方に目をやると、砂の上には傭兵の身体から流れ出ているおびただしい量の血が広がっていた。あの出血量ではもう助からないだろう、と不思議にも冷静にティルザードは思った。
ティルザードが現在おかれている状況は非常にまずいものであった。テントの向こう側にいる襲撃者がティルザードのことを見つけないうちにどうにかしてここから逃げ出さねばならないが、彼が今いる場所は拓けた砂漠で身を隠せるような遮蔽物はほとんど存在しない。そのような場所からうまく逃げ出すにはどうすればよいのだろうか。普通の学者であるティルザードにはそのようなことを学んだ経験はなかったし、遭遇した経験もなかった。
ティルザードがとるべき行動はなんなのか結論を出せずにいると、先に襲撃者の男の方に動きがあった。彼はテントに近づくと入口からテントの中をのぞき込んだ。テントの中にはティルザード一行がスメールシティから持ち出してきた荷物が置かれている。食料や水、寝袋、着替えや傷薬など野営のための道具とティルザードの私物である調査の際に用いる道具だ。男はそのままテントの中に入ると、それらの荷物を漁り始めた。先ほど彼が呟いた言葉からいって、襲撃者たちは金目のもの目当ての盗賊である可能性が高そうだ。
行動するのは今だ、とティルザードは思った。どこからか湧き出てきたその考えに従ってティルザードは行動を開始した。
襲撃者の男がテント内にある荷物へ気をとられているうちに、ティルザードはテントの裏から飛び出した。そしてそのまま後ろを振り返ることなく、前に向かって走り出す。砂の上は走りにくいができるだけ早く、襲撃者との距離を離せるように。
「おい、待て」
背後からティルザードに向かって呼びかける声があった。しかし、彼は振り返らない。前方だけを見て、砂に足をとられないよう地面の様子にも注意を払いながら走り続けた。
襲撃者の男は呼び止めに応じなかったティルザードに対し苛立ちを隠しきれなかったのか、ひとつ舌打ちをするとティルザードを追って走り出した。ティルザードは襲撃者の男のその様子を見たわけではなかったが、彼の方へ向かって走ってきているのは背後からの音でわかった。
インドア派の学者であるティルザードの息は、早くもだんだんとあがってくる。もっと日頃から運動をしておくべきだったということを、ティルザードはこれ以上ないほどに後悔した。ティルザードが襲撃者の男の不意をつき、先んじてテントの裏から飛び出したことによって空いていた二人の間の距離が少しずつ縮まってくる。
ティルザードが一歩を踏み出したとき、彼は地面の砂に足をとられ、立っている際に保つべきバランスを崩した。慌ててなんとか体勢を整えようとするが、それは叶わなかった。そのまま、その場の地面に向かって倒れ込む。偶然にも転んだ場所には硬い岩がなかったため、それほど痛みは感じない。ティルザードは慌てて身を起こした。
「逃げようとしたって無駄だ」
襲撃者の男の声がティルザードのすぐ近くから聞こえた。気づけば、彼はティルザードに手を伸ばせば届きそうなくらいの距離に既にいた。ティルザードが転んで起き上がるまでの数秒の間に近づいたのだろう。襲撃者の男はティルザードが着ている丈の長い服の裾を片手で掴むと強い力で引っ張った。ティルザードはバランスを崩し、再度地面の上に倒れ込んだ。暴れて逃げ出そうと試みるが、襲撃者の男がティルザードの服を掴む力は想像以上に強く抜け出せない。
「離してくれ」叫ぶようにしてティルザードは言った。
「離す?」
「そうだ、離してほしい。私を捕まえたところで君には何も得はないだろう」
「ふむ」と襲撃者は少しだけ考える様子をみせた。そしてしばらく考えた後、「それは俺が決めることだ。お前が決めることではない」と言い、ティルザードの肩を押さえつけた。
襲撃者の男は、彼の身体の下でティルザードが暴れているにも関わらず微動だにしなかった。ティルザードは絶望した。彼にはこの男の拘束から逃げ出す
ティルザードは暴れるのを止め、流れに全てを任せることにした。ここで彼の数十年における人生は終わってしまうだろうが、それも仕方ないと思った。
そのときだ。急に何かがティルザードにかかった。そのことを認識したのと同時に襲撃者の男は腕を押さえ、何かを叫びながら後ろを振り向いた。ティルザードへの拘束がとかれる。彼は首を動かして自身にかかった何かを見ようとした。それは襲撃者の男の血だった。ティルザードは驚き、慌てて上半身だけを起こした。
襲撃者の方を見ると彼は、マントを羽織りフードを目深に被った何者かと戦闘をしていた。ティルザードは闘い方については素人だが、それでも彼らの闘いは戦闘に慣れた者たちの動きであることは一目でわかった。彼らの動きはまるで二人で事前に打ち合わせでもしたかのようだ。示し合わせたかのようにお互いの武器と武器をぶつけ合わせている。突然現れた謎の乱入者はかなり小柄で、その体格を活かし素早く動いて相手の隙をついて懐に入り込むかのような戦闘スタイルだった。一方、襲撃者の男はその筋肉質で大柄な体格を活かして、もしひと太刀でも浴びればただではすまないような重い一撃をいれようとしている。
正反対の戦闘スタイルである、二者の決着は思ったよりも早くついた。
あるとき、乱入者の方の一撃が襲撃者の男の急所に命中した。男はそのまま、傷を庇うようにしながら相手との距離をおいた。傷はかなり深いものであるようで、その場に膝をつく。その隙を乱入者は見逃さなかった。素早く距離をつめ、とどめの一撃を与える。襲撃者の男は衝撃により吹っ飛び地面の上に横たわるような姿勢をとると、そのまま動かなくなった。
乱入者はしばらく動かなくなった襲撃者の男の方を見ていたが、もう息がないと思ったのか後ろを振り向いてティルザードの方を見つめた。そのまま、乱入者はティルザードの方へ近づいてくる。そして、ティルザードのそばまでくると手を差し伸べながら、「大丈夫?」と尋ねた。若い女の声だった。
ティルザードは彼女の手をとり、立ち上がった。
「ありがとう。君がいなければ今頃、私の命はなかったよ」
「そうかもしれないね、ティルザードさん」
「なぜ私の名前を?」
ティルザードは疑問に思ってそう聞いた。
「やだな、ティルザードさん忘れちゃったの?」
言いながら彼女は頭から被っていたフードをとった。紫色の髪があらわになる。
ティルザードは彼女の顔を見て、驚いた。彼が初めて砂漠を研究調査で訪れた際、傭兵として雇っていた者のうちの一人であるジェイドであったからだ。
それは思いがけない再会であった。
ティルザードがジェイドと初めて会ったのは、依頼者として、傭兵として紹介された者の面接をしたときのことだった。ティルザードは砂漠へ研究調査に行くことを決意した後、冒険者協会に誰か良い者を紹介してくれないかと頼んでいたのだが、そこを経由してジェイドと彼女の父親を紹介されたのだ。
紹介された傭兵が部屋に入ってきたのを見たとき、ティルザードは予想外の事態に驚いていた。入ってきたのが傭兵らしい体格の成人男性と、まだ教令院に通っていてもおかしくない年齢の少女だったからだ。
ティルザードは彼らに対し、少々不安な気持ちを抱いた。依頼者と契約の話をする場に子供を連れてくるなんて、常識外れもいいところだ。色々理由をつけて話を聞く前に断ろうかとも思ったが、数日前から募集をかけて引き受けても良いと言ってきたのは現状彼らだけだったので、とりあえず話だけは聞くことにした。どうやら、砂漠方面への護衛を引き受けてくれる傭兵の需要は商人たちから高く、ティルザードが募集をしている類の、どれほど大変な任務になるか予測ができない依頼を引き受ける者はなかなかいないようだった。
成人男性の方の、ジェブライラと名乗った傭兵は寡黙な男だった。ティルザードが尋ねたことに対し、うなずくか、「違う」と言うか、短く端的に回答をするだけでほとんど喋らなかった。傭兵というものは契約を結べるかどうかといったこのような場で、過去におのれたちがやった実績というのを必要以上に話すものだと思っていたが彼はそうでなかった。彼には本当にティルザードと契約を結ぶ意思があるのだろうか。しぶしぶティルザードと話しているようにも見えなくはない。もしくは、彼はかなり腕のたつ傭兵として既に有名で、彼の方から実績について話すまでもなく相手がそれについて知っている可能性もある。シティからほとんど出たことのないインドア派の学者であるティルザードには、どの傭兵が腕のたつと評判であるかなんて情報は知りようがなかったが。仕方なくティルザードの方からジェブライラの傭兵としての能力について聞くことにした。
「ところで、あなたは今まで傭兵としてどのような依頼を引き受けてきたのだろうか」
「依頼?」とジェブライラは言った。
「父さんはすごいんだよ」
ジェブライラの代わりにジェブライラの隣にいた少女――つまり、ジェイドが話し出した。
「シティ近郊の護衛任務は何度も引き受けている。父さんとあたしに是非頼みたいと継続して依頼をしてくれる商人だっているの。あの有名な大商人、ドリー・サングマハベイの依頼だって何度も引き受けたことがあるんだ」
「なるほど」と言うと、ティルザードはジェイドがしてくれた話について考えた。
傭兵としての実績は充分あるようだ。その実績というのがシティ近郊の雨林地域での依頼で、砂漠地域での依頼はそれほど引き受けていないようにみられるのが少々気になるが、まあ特に問題はないであろう。
そこでふと、ジェイドが『父さんとあたしに』と言ったことについてティルザードは気になった。彼らが親子という事実が気になったのではない。親子なのは妥当だと思えるような年齢差であったため、驚きは全くない。ティルザードが気になったのはあたかも、ジェイド自身も傭兵であるかのような口ぶりであったことだった。
「君も傭兵なのかい?」とティルザードの口をついてその質問が出た。
ジェイドはうなずく。「もちろん。父さんほど強くはないけれど」
その口ぶりは自信に満ちあふれたものだった。第一印象ではただの子供だと思っていたが、そんな彼女の様子を見ていると、彼女も傭兵なのだと思えてくる。
そんなジェイドの様子をきっかけにして、ティルザードの気持ちは固まっていた。彼らに是非依頼を引き受けて貰いたいと、ティルザードは心の底から思ったのだ。
「是非あなたたちに頼みたい」とティルザードは言った。
「本当に? 良かった。あたしたちが引き受けてきたものについてティルザードさんが聞いてきたあたりから、少し心配していたんだ。あたしたちのこと、たいした実力もない傭兵だと思っているんじゃないかって」
「そんなことはない」とティルザードは慌てて言った。
そう言ったティルザードに対し、ジェイドはにっこりと笑うと言った。「じゃあ、報酬の話をしよう」
ティルザードはジェイドの言葉にうなずくと、報酬を提示した。彼が払っても良いと思える金額で、傭兵を二人雇うには充分なものであるだろう。少なくとも、ティルザードはそう思っていた。そして、付け加えて言った。
「この金額は調査開始前に支払おう。どうだろうか?」
「調査期間が予定より伸びた場合は?」とジェブライラはティルザードに対し尋ねた。
「ええと」
ティルザードは予定通りに行かなかった場合のことを全く考えていなかった。ジェブライラの質問はティルザードにとって予想外のものだった。こういう場合はどうするのが一般的なのだろうか。ティルザードにはわからなかった。
「予定より護衛の期間が伸びる場合、その分金額を多く払ってくれる保証がなければ依頼は受けられない。調査期間が延びたとしてもその場で俺たちとの契約は終了し、他の傭兵を雇うならばその金額で引き受けよう」とジェブライラは言った。
「ちょっと待ってくれないか」
ティルザードはそう言うと慌てて考えをまとめようとした。もし予定より長く調査がしたくなった場合に、新たに護衛を引き受けてくれる者を探すだなんてことはやりたくなかった。
「わかった。その場合の追加料金は君たちの言い値で契約を締結しよう」
「だったら、一日伸びるごとに一万モラ。これでどう?」とジェイドが横から言った。
ティルザードはうなずいた。「ああ、それで問題ない」
ティルザードは持ってきていた用紙に話し合って決めた契約内容を不備がないよう正確に記載すると、ジェブライラの前に差し出した。
「これで問題なければサインを」そう言い、ペンを手渡す。
ジェブライラはペンを受けとると、差し出された契約書に目を通しはじめた。
「それにしてもティルザードさん、誰かを雇う際に相手へ払ってほしい金額を提示してもらうのは良くないよ」
ジェイドは隣で契約書を読む父親をちらりと見た後、ティルザードの方に向き直って言った。
「予想外の事態があっても報酬額だけは相手に提示を求めちゃいけないよ。今回、ティルザードさんは予定より長く研究調査をすることになった場合を考慮していなかったのかもしれないけど、適当でもいいからティルザードさんの方からあたしたちに対し金額を提示するべきだった。あたしたちにはティルザードさんを騙そうだなんてつもりは全くなかったから良かったけど、傭兵や商人の中には少しでも多く報酬を得ようと悪知恵を働かせている輩も多いから気をつけてほしい」
「なるほど、そこまで考えは及んでいなかったよ。詳しいんだね」
「それはそうだよ。何年もこの仕事をやっているんだもの」
二人の会話に混ざって、ジェブライラが紙にペンを走らせる音がした。彼はペンをテーブルの上に置くと、ティルザードの方へ契約書を押し出した。
「契約成立だ」とジェブライラは言った。
ジェイドが隣でうなずく。「しばらくの間よろしくね」
「詳しい出発時間と集合場所は後で追って連絡しよう。どこに連絡を入れれば良いだろうか」
ティルザードは尋ねた。
「冒険者協会へ言ってもらえれば問題ない。俺たちは冒険者ではないが、協会に依頼者との仲介を頼んでいるんだ」とティルザードの質問にジェブライラが答える。
「わかった。そうしよう」そう言うとティルザードは椅子から立ち上がった。「申し訳ないが、次の約束があるんだ」
「約束?」
ジェイドが尋ねる。
「ああ。今回の研究調査では駄獣を借りたいと思っているんだ。それで、貸してくれる相手と話をするつもりでね」
「そうなんだ。さっきあたしが言ったことに気をつけてね」
「わかっている」
ティルザードはあたりまえだろうといった口調で言った。
駄獣を貸してくれる商人との交渉では、ジェイドにもらったアドバイスどおり、向こうに報酬として渡してほしい金額を提示させるようなことが起こらないよう注意をはらった。具体的には、一日ごとに何モラ払うといったような契約を結べるように交渉をしたのだ。
商人たちはティルザードの申し出に対し、文句のひとつも言うことなく契約は締結された。そして、予定の日数分の金額を算出すると、その場で彼らに支払った。
後日、ティルザードは商人――ナハティガルとボニファズに対し相場より高い金額を提示していたことをジェイドから聞いて知る。しかし、研究調査に行く前の彼はそのような事実をつゆ知らず、自身の論文が研究調査によって完成するかどうかだけを心配していた。